今井と道頓堀の200年


年表

・1582(天正10)

安井(成安)道頓、大阪城の外堀工事と猫間川河岸整備に対する賞として、秀吉から城南の地を拝領。その地は、葦が生えているだけの低湿地で無人だった。※6月、明智光秀、信長を本能寺に、信忠を二条城に攻め、自殺に追い込む(本能寺の変)。当時、堺にいた家康は柳生越えで三河に逃れる。光秀は、高松城攻めから大返しした秀吉と戦うが敗れ、土民に殺される(山崎の合戦)。7月、秀吉が太閤検地を開始

 

・1583(天正11)※4月、秀吉、賤ヶ嶽の戦いで柴田勝家を破る、勝家は越前北ノ庄で自殺。6月、秀吉、大坂入城、9月に大坂城の築城を開始

 

・1584(天正12)※4月、長久手の戦いで徳川家康が秀吉軍を破る。11月に和睦。

 

・1585(天正13)※5月、秀吉が大阪天満の地を本願寺に与える。7月、秀吉、関白となる。この年、淀屋常安(淀屋の初代)が大坂・十三人町(現大川町)に材木屋を開店。

 

・1586(天正14)※10月、家康、秀吉の度重なる要請に応じ、大坂城で臣下の礼をとる。12月、秀吉、太政大臣となり「豊臣」の姓を賜う。

 

・1587(天正15)※6月、秀吉、九州を平定。9月、聚楽第を築造。10月、北野で大茶会。

 

・1588(天正16)※7月、刀狩。

 

・1590(天正18)※7月、秀吉、小田原を征伐、全国統一を成し遂げる。小田原城で家康に関東8国を与え、移封。8月、家康、江戸城に入る。

 

・1591(天正19)※2月、秀吉、千利休を自殺に追い込む。

 

・1592(文禄 元)※3月、秀吉、京を発し肥前名護屋に向かう(文禄の役)

 

・1594(文禄 3)※東横堀川開削(大阪の堀1号)。

 

・1596(慶長 元)※1月、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家および東国諸大名が、秀吉の命で淀川の築堤を行う(太閤堤)。11月、秀吉、大坂城に移る。

 

・1597(慶長 2)※1月、秀吉軍、再征のため朝鮮に上陸(慶長の役)。3月、醍醐の花見。

 

・1598(慶長 3)※8月、秀吉没、63歳。12月、秀吉軍、朝鮮からの撤兵をほぼ完了。天満堀川開削(大阪の堀2号、1838年に延長開削)。

 

・1600(慶長 5)※関ヶ原の戦い、西軍惨敗。阿波堀川、西横堀川開削(大阪の堀3、4号)

 

・1603(慶長 8)※2月、徳川家康、征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開く。4月、出雲の阿国、京都・北野神社境内で「かぶき踊り」を演じる。歌舞伎の始まり。

 

・1605(慶長10)※4月、家康、征夷大将軍を辞し、秀忠がこれに任命される。

 

・1612(慶長17)

豊臣氏の許可を受け、安井(成安)道頓、安井治兵衛、治兵衛の弟の安井九兵衛道卜、平野藤治らが私財を投じて久宝寺の農民を駆り出し、天王寺の北から西へ流れていた旧梅津川を拡張、東横堀、西横堀を結んで木津川に注ぐ堀川の開削工事を開始。道頓は新川奉行に任命。(注)道頓は「平野郷町出身の成安道頓」とする説が、最近では有力である。高津神社には梅津川の源流ともいうべきところに「梅の橋」が残されている。※3月、幕府がキリシタンを禁ず(禁教令)

 

・1614(慶長19)

道頓堀開削工事中に道頓の弟、安井治兵衛が病死。※4月、豊臣秀頼、方広寺の鐘を鋳造。7月、その鐘銘「国家安康」に家康が異を唱え、大仏の開眼供養の延期を求める。10月、大阪冬の陣、12月に和議成立。

 

・1615(元和 元)

4月、大坂夏の陣。道頓は豊臣方で参戦。淀君、秀頼が自決し、大坂城が陥落した5月6日の翌日、城内で討ち死した。

戦後、徳川方についていた道卜や平野藤治が、大坂城主となった松平忠明(家康の孫)の許可を得て残工事を継続。同年11月、新しい堀川を完成させた(大阪の堀5号)。堀川は当初、新堀、南堀川、新川などと呼ばれた。その後、松平忠明が道頓の死を追悼、私財を投じてことにあたった功績に鑑み、「道頓堀」と命名した。

 堀開削完成とともに川の北岸に4町(西から久左衛門町、御前町、宗右衛門町、大和町)、南岸に4町(西から湊町、九郎右衛門町、吉左衛門町、立慶町)の「道頓堀川八丁」が成立した。現在も宗右衛門町と湊町の二つの町名が残っている。

 道頓堀川開削とほぼ同時期に戎橋がかけられた。今宮戎神社への参道だったことから、この名で呼ばれた。ただし、延宝年間の道頓堀古図では「操り橋」とされている。井上播磨や清水理兵衛がこのころすでに橋の南詰めで操り浄瑠璃を興行。のちに「西の芝居(竹本座)」もこの地に創設され、この呼び名が定着したものらしい。しかし、浄瑠璃の衰退とともに、橋の名も元の戎橋に戻った。

※7月、武家諸法度、禁中並公家諸法度などを制定。8月、徳川秀忠が江戸へ、家康が駿府へ凱旋

 

・1617(元和 3)※3月、日興東照宮社殿造営。同、江戸・吉原遊郭開設。京町堀川、江戸堀川開削(大阪の堀6、7号)。

 

・1619(元和 5)

この年、公儀橋として長さ40メートル、幅7メートルの「日本橋」が完成。紀州藩の参勤交代もこの橋を使った。1877年(明治10)に鉄橋になり、1901年と1921年にかけ替えられた。現在の橋は1969年(昭和44)の架橋。

※7月、松平忠明を大和郡山に転封、そのあとの大坂を幕府直轄領とする。8月、大坂町奉行を設置。淀屋常安が、葦が茂る砂州でしかなかった中之島を常安請地として開拓を進め、この年に整地が完了、大名の蔵屋敷が建ち始める。この年あたりに、堺の商人の手で「菱垣廻船」が江戸に向けて回航、間もなく定期運航されるようになる。

 

・1620(元和 6)※1月、諸大名の普請役により、大坂城再建を開始。

 

・1622(元和 8)※8月、淀屋こ庵らが新靭町、新天満町、海部堀町を開く。

 

・1623(元和 9)※7月、秀忠、征夷大将軍を辞し、家光がこれに任ぜられる。

 

・1624(寛永 元)※海部堀川開削(大阪の堀8号)。

 

・1625(寛永 2)※長堀川開削(大阪の堀9号)。

 

・1626(寛永 3)

道卜らは道頓堀周辺町の振興策として許可を得て、遊所を道頓堀川北岸に、南船場・勘四郎町(現安堂寺橋通)に形成されていた芝居町を南岸に誘致した。当初、芝居小屋は道頓堀通の北側、川に背を向ける形で建ち、遊女歌舞伎が行われた。道頓堀で歌舞伎を興行したのは京都から下ってきた段助というもので、舞台に遊女を立たせ、これを阿国歌舞伎と称したという。当時の一帯は葦が生い茂る寂しいところ。道卜の誘致策が今日の道頓堀繁栄の先駆けとなった。  ※4月、幕府が人身売買を禁止。7月、大坂城定番制を定める。立売堀川開削(大阪の堀10号)。

 

・1627(寛永 4)※この年、幕府が新町遊郭を公認。1616年に木村又二郎が遊郭設置を願い出て以来、11年ぶりの沙汰。新町は江戸・吉原、京都・島原と並び「3大遊郭」の一つに数えられた。・1628(寛永 5)※この年、江戸で女歌舞伎が大流行。

 

・1629(寛永 6)

幕府が、江戸や大坂・道頓堀界隈ではやっていた遊女歌舞伎や女舞を、風紀上問題があるとして禁止した。これに変わって、前髪の若衆による若衆歌舞伎が演じられ始め、人気を博した。このため、京都から下ってきた大坂屋太左衛門、松本名左衛門らが多勢の若衆を舞台に出す芝居を始め、50人もの若衆を一度に舞台に出す企画まで登場した。

当時の芝居小屋は、周囲をむしろや板で囲い、屋根は舞台の上だけにある雨露をしのぐ程度の仮小屋。舞台には床几を並べ、土間にむしろを敷いただけの見物席で桟敷もない粗末なものだった。 ※この年からキリシタン弾圧の踏絵がスタート。

 

・1630(寛永 7)※薩摩堀川開削(大阪の堀11号)。

 

・1633(寛永10)※この年、歌舞伎に三味線が使われるようになる。

 

・1634(寛永11)※閏7月、大坂、堺、奈良の地子銀(税金)を免除。

 

・1635(寛永12)※5月、鎖国令。6月、武家諸法度を改定し、参勤交代を制度化

 

・1636(寛永13)※6月、江戸と近江坂本に銭座を新設、寛永通宝を鋳造。

 

・1643(寛永20)※この年、朝鮮通信使来る。

 

・1648(慶安 元)※4月、大坂市中諸法度(町人の帯刀禁止など)を発布

 

・1649(慶安 2)※大和川洪水のため、2万8000石損失。

・1650(慶安 3)※8月、大坂で暴風雨、大坂城中で被害出る。

 

・1652(承応 元)

 人気のあった若衆歌舞伎が男色を売り物としていたため、禁止となり、それに代わったのが野郎歌舞伎だった。

この年、「名代(興行権)制度」が導入され、名代を官許されたしるしとして劇場正面に櫓が掲げられた。同時に名代を得た中の芝居(後の中座)、角の芝居(後の角座)、大西の芝居(後の浪花座)が開場した。

「中の芝居」は京から下った6人衆の一人、塩谷九郎右衛門の芝居が公許となったのに始まる。大西の芝居と角の芝居の間にあったから、こう呼ばれた。

「角の芝居」は大坂太左衛門が興行の許可を受けて建設した。小屋の西北に宗右衛門町と道頓堀を結ぶ橋があったが、これ以降「太左衛門橋」と呼ばれるようになった。橋の建設時期も、その直前、と推定される。

「大西の芝居」は道頓堀芝居名代御定のおりの松本名左衛門芝居に始まる。

道頓堀で櫓をあげることを許された芝居小屋が8軒あり、これらは主に浄瑠璃、歌舞伎を上演した。これらを「大芝居」と呼び、通りの南側に並んだ。通りの北側に小芝居、見世物小屋などが並んだ。最盛期には歌舞伎6座、浄瑠璃5座、からくり1座に増えた。

※5月、淀川が氾濫、大坂洪水が起きる。6月、若衆歌舞伎を禁止

 

・1657(明暦 3)※1月、江戸で明暦大火(振袖火事)。5月、吉原遊郭を日本橋から浅草に移す。

 

・1660(万治 3)※6月、大坂城火薬庫に落雷し、城郭に大被害。8月、大坂に大雨、大坂城石垣破損。

 

・1661(寛文 元)※1月、京都で大火、皇居と上皇御所炎上。この年あたりに、伝法村の船問屋の手で「樽廻船」が始められた。伊丹の酒屋の援助で始められ、酒を主たる積荷としたが、その後、酒に加えて酢、醤油、塗り物など生活の必需品を江戸に運ぶ定期船となった。菱垣廻船と同様、最初は200石積み程度だったが、江戸末期には1800石積みの船が用いられるようになった。

 

・1662(寛文 2)

「からくり芝居」の考案者、竹田出雲(近江)が、太左衛門橋と相合橋の間の浜側(道頓堀通りの北側)に芝居小屋を創建、「からくり芝居」を初めて興行した。これが「竹田の芝居」と大変な評判を呼び、長崎から江戸に向かうオランダ商館の人たちも「竹田のからくりをみないと、大坂に来た甲斐がない」と、これを楽しんだ(摂津名所図会)。小屋は宝暦年間(18世紀中ごろ)、現在の跡地(弁天座跡=道頓堀通りの最東端)に移った。

 近江は江戸に住んでいるころ、浅草観音境内で子供たちが砂遊びをしているのを見て、砂時計を発明したといい、後に京都に移って、この時の経験をもとに「唐操偶人(あやつり人形)」を考案。道頓堀での興行につなげた。これが文楽の起源となった。

 

 1658年(万治元)に竹田出雲の名を拝し、1726年(享保11)に「近江」と改名した。「摂津名所図会」では、出雲、近江は同一人物としているが、別人とする説もある。

 この年あたりが道頓堀の賑わいの最盛期とされ、歌舞伎が6座、浄瑠璃が5座、節回しををつけて仏教の教えなどを説く節談説教やからくり芝居などの小屋十数座がひしめいた。

 ※5月、京畿大地震発生、各地の城が崩れる。

 

・1666(寛文 6)※2月、千姫没、70歳。12月、雑喉場から出火した火事で、142町1933軒焼失。

 

・1673(延宝 元)※この年、三井高利が江戸と京都に越後屋呉服店(三越)を開店。

 

・1678(延宝 6)※2月、坂田藤十郎、大坂に歌舞伎(和事)を確立。

 

・1680(延宝 8)

80年代に「相合橋」が架けられた。当初は中橋、新中橋と呼ばれ、近松門左衛門の浄瑠璃「心中重井筒」の一説に「中橋」として登場している。現在の呼び名になった時期は不明。

明治になって男女の仲が切れる「縁切り橋」との風評が立ち、婚礼の行列もこの橋を渡らなかったという。

現在の橋は1983年(昭和58)の架橋。1983年(昭和58)、橋上に憩いの広場が設けられた。 

※5月、将軍家綱が没し、堀田正信が殉死。8月、江戸市中の乞食を追放。この年、松尾芭蕉が江戸深川の芭蕉庵に入る。

 

・1682(天和 2)※10月、「好色一代男」(井原西鶴)刊。12月、八百屋お七の放火で江戸大火。

 

・1683(天和 3)※3月、八百屋お七を火刑。

・1684(貞享 元)

 

2月、竹本義太夫が戎橋東南詰めに「竹本座」(後に大西の芝居→浪花座)を開場。(85年との説もあり)。 ※2月、河村瑞軒、淀川下流の治水工事に着手。この年、逆川開削(大阪の堀12号)。

 

・1685(貞享 2)※4月、松尾芭蕉の「野ざらし紀行」刊。9月、山鹿素行没、64歳。12月、安治川完成。

 

・1686(貞享 3)

この年、近松門左衛門作の「出世景清」が竹本座で初演、大当たりとなった。 ※井原西鶴の「好色五人女」「好色一代女」「本朝二十不孝」が相次いで刊行。

 

・1688(元禄 元)※1月、井原西鶴の「日本永代蔵」刊。11月、堂島に米穀取引所を建設。

 

・1691(元禄 4)※4月、別子銅山開坑。10月、ヘビ使いや動物の見世物を禁止。

 

・1692(元禄 5)※1月、井原西鶴の「世間胸算用」刊。

 

・1693(元禄 6)※8月、井原西鶴没、52歳。

 

・1694(元禄 7)※4月、芭蕉が「奥の細道」を完成させ、10月に没、51歳。

 

・1698(元禄11)

竹本義太夫(築後掾)、操り芝居(人形浄瑠璃)を挙行。 ※3月、河村瑞賢、150石の旗本となる。三軒屋川が開削され、瑞賢が堀江川開削(大阪の堀13、14号)。

 

・1699(元禄12)

11月、道頓堀に初の芝居茶屋が誕生。

最初は、にわか雨などの時に芝居客が難渋するので、浜側の板囲いのうちに床几を構え、茶を出す程度のものだった。手軽にでき、客の評判もよかったのか、たちまち48軒もできた。いろは47文字に「ん」を加えた48なので、当初は「いろは茶屋」と呼ばれた。その後、この茶店で芝居の木戸札を売り、立ち寄る見物客を芝居に誘うお茶子をおくなどしたため、芝居茶屋と呼ばれるようになった。その数は天保以降、60軒余、明治7、8年ごろには63軒も。しかし、その後は東の芝居茶屋からなくなり始め、日露戦争前になると20軒程度に減少。大正5年には17軒、昭和に入って12軒に減り、昭和7年ごろになると10軒程度までに減った。最後まで残ったのは、中座向かいにあった「三亀」だった。※6月、河村瑞賢没、82歳。10月、大奥に倹約令。

 

・1701(元禄14)※3月、浅野長矩、江戸城殿中・松の廊下で吉良上野介を傷つけ、切腹改易。

 

・1702(元禄15)※12月、赤穂浪士、大石良雄ら吉良上野介を討つ。

 

・1703(元禄16)

5月、近松門左衛門の「曽根崎心中」が竹本座で初演。

この年、竹本義太夫の弟子、豊竹若太夫が、人形浄瑠璃の芝居小屋として「豊竹座」を旗揚げ。義太夫、若太夫は対照的な芸風で競い合い、「竹豊時代」と呼ばれる浄瑠璃全盛期を作り上げた。※2月、大石良雄ら赤穂47士切腹。11月、堀江新地、曽根崎新地を開発。

 

・1704(宝永 元)※1~3月、浅間山噴火。2月、大和川付け替え工事開始、10月に竣工。

 

・1705(宝永 2)

竹本義太夫が「竹本座」の経営権を、道頓堀の実力者だった竹田出雲に譲る。新体制の「竹本座」は近松門左衛門を座付作者として迎え、竹田出雲、義太夫、近松は傑作を次々と世に送り出し、人形浄瑠璃の黄金時代を迎えた。※5月、淀屋辰五郎広当、闕所処分。

 

・1706(宝永 3)

6月、近松門左衛門の「碁盤太平記」が竹本座で初演。 ※1月、江戸大火に伴う諸商品価格つり上げを禁止。

 

・1707(宝永 4)

10月、宝永大地震。大坂で家屋1万戸が倒壊、死者約3000人。津波で道頓堀周辺も水没。※11月、富士山噴火。

 

・1708(宝永 5)※曽根崎に茶屋、風呂屋、芝居小屋の設置が許可される

 

・1709(宝永 6)※1月、生類憐み令廃止。

 

・1710(宝永 7)

「角丸の芝居」と呼ばれた劇場が官許を受けて開場。阪恵座の廃業後は道頓堀五座の一つに数えられるようになる。※4月、武家諸法度を改定更新。この年、閑院宮家創設。

 

・1712(正徳 2)

新町廓随一の傾城、夕霧太夫の35回忌に当たる初春、近松門左衛門が「夕霧阿波の鳴門」を書いて「竹本座」で上演、大当たりをとる。 ※10月、徳川家宣没、51歳。

 

・1714(正徳 4)※8月、貝原益軒没、85歳。竹本筑後少掾没、64歳。この年、近畿地方が不作で、米価高騰。

 

・1715(正徳 5)

 11月、近松門左衛門の「国姓爺合戦」が竹本座で初演。※4月、人身売買、永年季奉公、田畑永代売買の禁止を再度命令。7月、御用商人が役人に品物を送ることを禁止。

 

・1716(享保 元)※5月、紀伊藩主、徳川吉宗が将軍家を継ぎ、質素倹約を旨とした享保の改革を断行、同時に間部詮房、新井白石、本多忠良らを罷免。6月、尾形光琳没、59歳。7月、大坂大火、3635戸を焼失。

 

・1717(享保 2)※2月、大岡越前守忠相、町奉行に。この年、土橋友直が含翠堂を平野郷町に開く。

 

・1720(享保 5)※10月、水戸家、光圀編纂の「大日本史」250巻を幕府に献ずる。

 

・1724(享保 9)

3月、大坂大火(妙知焼)。市街地の大部分、408町が焼け、焼失戸数は12205軒。竹本座、豊竹座も焼失。11月、近松門左衛門没、72歳。※11月、五同志(三星屋武右衛門、船橋屋四郎右衛門、道明寺屋吉左エ門、備前屋吉兵衛、鴻池又四郎)が出資し、尼崎町一丁目(現在の大阪市中央区今橋4丁目)に懐徳堂を設立。初代学主は三宅石庵。

 

・1726(享保11)※6月、懐徳堂が、学主、三宅石庵の申請に基づいて徳川吉宗から公認され、官許学問所となる。

 

・1727(享保12)※2月、中川清三郎らが大坂堂島米相場会所を設立。9月、大坂町奉行所の門前に目安箱を設置。

 

・1730(享保15)※6月、堂島で米相場を立てることを公認。

 

・1731(享保16)※6月、米価下落が深刻となり、これに歯止めをかけるため、大坂の富商に買米を命令、10月には大阪の町々にも同様の命令。

 

・1732(享保17)※9月、享保大飢饉(イナゴの害による)、各地で強訴、一揆頻発。

 

・1733(享保18)※5月、江戸市中での米の買い占めを禁じ、大坂に米倉を建設。この年、難波新川開削(大阪の堀15号)。

 

・1734(享保19)※4月、紀伊国屋文左衛門没。この年、境川運河開削(大阪の堀16号)。

 

・1752(宝暦 2)

初代津国屋清兵衛が道頓堀二ッ井戸に「津の清」を創業。おこしを板状にして原料の米を粟粒のように細かく引いて練り合わせた「粟おこし」を製造販売し、名物となった。今も生きる大阪土産の代表選手。 ※琉球使節が、時の将軍、徳川家重に謁見。

 

・1756(宝暦 6)※2月、安治川、木津川の河口浚渫費として緒船に一石あたり3文の石銭を課す。

 

 1752年(宝暦2)に「角座」の専属となった初代並木正三(しょうざ)が舞台機構の改良策としてせり上げや回り舞台を考案した。これは世界で最初の舞台機構だった。

 

・1760(宝暦10)

 竹本座の座頭でもあり、人形の3人遣いを創案した吉田文三郎(ぶんざろう)死去した。1734年(享保19)ごろから人形遣いを始めたとされる。※4月、大岡越前没、52歳。

 

・1761(宝暦11)※12月、大坂の富商に御用金令。

 

・1765(明和 2)

「豊竹座」を興した豊竹若太夫が死去。豊竹座は閉座され、「若太夫の芝居」という歌舞伎小屋に転ずるが、1876年(明治9)に焼失。「阪恵(はんえい)座」と名を変えて開場するものの、8か月後にまた焼失し、閉座に追い込まれた。 ※鈴木春信、錦絵を創始。

 

・1768(明和 5)※3月、「雨月物語」(上田秋成)刊。

 

・1771(明和 8)

人形浄瑠璃の小屋だった「竹本座」が閉座し、歌舞伎の小屋に。その後は「大西の芝居」(天保年間)と呼ばれ、さらに「筑後の芝居」(同末年)と改称。1876年(明治9)の道頓堀大火で焼失し再建されて「戎座」に、1887年(明治20)には「浪花座」と名を変えた。2002年(平成14)に閉館。 ※3月、杉田玄白らが「解体新書」の翻訳開始。

 

・1772(安永 元)※1月、天満青物市場の問屋・仲間株を公認。同、田沼意次が老中に、賄賂横行。この年、樽廻船問屋株を公認。

 

・1774(安永 3)※8月、杉田玄白らの「解体新書」刊行。

 

・1781(天明 元)

 道頓堀大火。芝居小屋から出火したとされる。

 

・1783(天明 3)※7月、浅間山大噴火、死者2万人。天明の大飢饉、奥羽より起き、全国に、88年まで。大坂でも2月、米価高騰と買占めに抗議する打ち毀し起こる。

 

・1785(天明 5) ※12月、大坂の町人に御用金を命令。

 

・1786(天明 6)※5月、林子平の「海国兵談」完成。8月、田沼意次失脚。

 

・1787(天明 7)※6月、松平定信が老中首座となり、寛政の改革がスタート。

 

・1788(天明 8)※1月、京都大火。御所、二条城も焼失。

 

・1789(寛政 元)※9月、棄捐令を発し、旗本・御家人の負債を免ず。大阪・南本町で大火(寛政の大火)。

 

・1790(寛政 2)※江戸の銭湯に男女の混浴を禁ず。

 

・1792(寛政 4)※天満大火。焼失町数89、家数2118。9月、ロシア使節ラスクマンが伊勢の漂流民、大黒屋幸太夫を護送して根室に来航、通商を要求。

 

・1793(寛政 5)※松平定信、老中を解任。この年、大豊作で米価下落。

 

・1794(寛政 6)

道頓堀北岸の久左衛門町に「米市」がたつ。安井道卜らに近い農民が開いたとされ、一帯は「米相場浜」と俗称されたという。※この年、江戸以外でも男女混浴を禁止。

 

・1800(寛政12)※4月、伊能忠敬、蝦夷地を測量。6月、京都、大坂の銀座を廃止。

 

・1802(享和 2)※7月、摂津・河内大洪水、淀川堤防43か所決壊。

 

・1804(文化 元)※9月、ロシア使節レザノフ、長崎に漂流民を護送し、通商を要求。

 

・1805(文化 2)※6月、関東(関八州)の治安維持のため「関東取締出役」を設ける。9月、女浄瑠璃を禁止。この年、山片蟠桃の「夢の代」完成。滝沢馬琴の「椿説弓張月」刊行。

 

・1815(文化12)

 このころ、「今井」の初代、今井佐兵衛が大坂へ。奈良・今井町(現在の橿原市)の庄屋の家筋に生まれた。生来のやんちゃもんだったのに加え、ばくち好きで勘当され、逃げるように故郷を後にしたという。道頓堀周辺で屑拾いを生業としながら生活を続けたとされる。が、いつ、どんな女性と結婚したかや、暮らしぶりはわかっていない。しかし、過去帳などから「たけ」という名の一人娘がいたことだけは確実である。

 ※2月、座頭の高利貸しを取り締まる町触れが出される。4月、杉田玄白の「蘭学事始」刊。5月、阿蘇山が噴火。

 

・1822(文政 5)

9月25日、今井の初代、今井佐兵衛死去。※大坂など西国でコレラが大流行。

 

・1823(文政 6)※5月、摂津、河内の1007カ村が実綿操綿売りさばきについて国訴。7月、オランダ商館のドイツ人医師、シーボルトが出島に着任。

 

・1826(文政 9)

シーボルトの一行が、角座で芝居見物。 ※3月、シーボルト、オランダ商館長の将軍謁見に随行。この年、農民、町人、無宿が長脇差を帯びることを禁止。

 

・1827(文政10)

「西の芝居」の楽屋二階から出火、18人が焼死。「中座」も類焼した。「道頓堀焼」といわれた。※2月、文政の改革。11月、小林一茶没、65歳。

 

・1831(天保 2)※大坂町奉行の新見正路、安治川を浚渫して天保山を築く。

 

・1832(天保 3)※8月、ねずみ小僧次郎吉を処刑。

 

・1833(天保 4)※8月、関東、奥羽で大風水害、これにより大飢饉(天保大飢饉)。

 

・1834(天保 5)※6月、大坂市中で打ちこわし起こる。7月、大坂で大火。

 

・1837(天保 8)※2月、大塩平八郎の乱、3月、格之助とともに隠れていた町家で爆死。3月、大坂、兵庫で打ちこわし起こる。