食べることに精一杯だった今井寛三一家がかつて楽器店だった跡地を、食べ物屋としてスタートさせたのは、青葉に包まれた疎開先の寂定院から道頓堀に戻った1946年(昭和21)5月のことだった。
大阪大空襲で焼け落ちた楽器店の跡に建てたバラックの周囲には何もなかった。そこで寒天を売り、氷水を売った。蒸し暑さが増す梅雨のころを乗り切ると、氷水が売れに売れた。
秋がきて、売り物はぜんざいとおしるこ、焼き栗に変わった。そして内緒ながら、うどん、そばを提供するお店へと転換していく。寛三が意図して始めた商売とはいえなかったものの、妻、マチ子のやる気に押されて決断した道だった。しかし、やるからには成功させなければならない。寛三の目の色も変わった。
凝り屋の寛三は、そのためにまず、舞台装置を整えることから始めた。
通りに面した8畳見当の土間を店とし、緋毛氈(ひもうせん)の床几、高槻から持ち帰ったソファを並べ、間口中央の入口左に芝居茶屋の風情をかもす行灯(あんどん)をつるした。そこに、「今井」の文字を書き込んだ。「京都・嵯峨野の茶店風」を狙った「御蕎麦処 今井」の粋な看板である。「道頓堀に田舎あり」を目指す寛三流の店構え。すべてが器用な寛三の手作りだ。
1年後、入口右のスペースに柳の木が植えられた。高槻に住む知人の植木屋に頼んで運んできてもらったものだ。焼け野が原から生まれ変わりつつあった繁華な通りにお目見えした植物第一号でもある。
寛三にしてみれば「バラック建て店舗の、ほんのぼろ隠し」のつもりだった。が、道頓堀川べりなのに、柳の木を見ることもない珍しさも手伝ってか、柳はたちまち評判になる。「道頓堀に生まれた、しゃれた田舎」の点景として欠かせないものとなるにつれ、寛三の中に「名無しじゃあいかんなあ」の思いが募る。
ある日、寛三は「宵待ち柳」と書いた短冊を、幹の真ん中あたりにそっとかけた。それは、赤い灯青い灯を待ち焦がれる宵待ちなのである。同時に「宵町・道頓堀」への寛三の強い思いでもあった。
都会の中の田舎風、芝居茶屋創業当時の雰囲気に宵待ち柳。夏に向かう道頓堀に誕生した独特の風情は、平成の今井にも受け継がれた。
裏舞台の中心ともいうべき調理場のあつらえは分散せざるを得なかった。建物の浮世小路に沿って南奥に伸びた通路の、6畳と倉庫の切れ目部分にガス台を設け、我が家の食事の煮炊き場だった最奥部のへっついと調理台を使った。調理台の北にある井戸の東横にテンプラの調理場を新設した。手いっぱいの道具立てだ。
寛三が「見てくれ」にこだわる一方で、妻、マチ子は「味」に徹底してこだわった。
マチ子は、寛三が本当は楽器店の再興にこだわっているのを知っていた。なのに、マチ子がこれでいこうと決め、寛三の決断を促しためん類店の開業に必死になってくれている。それが、いじらしかった。それだけに寛三が納得できる、寛三自らの大転換が間違いではなかったと思える結果を、何としても出したかった。
そのためには「味」が大事だ。「味」で客を呼ぶ。これしかなかった。「今井の味」は、マチ子の思い入れが出発点だった。
マチ子は自分の舌に自信を持っていた。若いころ、東洋紡の社長のお嬢さんと一緒に市内のクッキングスクールに通っていて、ここで、味の基本を学び取った。
多くの食料が配給という時代で、手に入るめん類は乾麺。これをどんな味で客に喜んでもらうか。その工夫を、マチ子が一手に引き受けた。
決め手は出汁(だし)である。「和の出汁」が昆布、鰹節であることは分かっている。しかし、それがすんなり手に入る時代ではなかった。まして、その道の素人には、どこをどうつつけば材料を手に入れる道が開けるのかさえ分からない。
最初は牛肉、牛筋を炊いた煮汁を出汁にした。それは、いまのラーメンの出汁に近い味である。当時としては、それでもぜいたくな味だった。客は喜んだ。あの欠乏時代に牛肉から出汁を引くあたりに、マチ子の味へのこだわりがあるのだった。一方でマチ子は「いつかは昆布で本格的な出汁を」とも思い続けた。
マチ子のこだわりとしつこさを象徴する話を、次男の徳三がよく覚えている。
めん類店の定番メニューに、丼物がある。マチ子もそれらをお品書きに書き加えたかった。
ある日から、今井家の夜の食卓に毎晩、親子丼が出始めた。「またや」と徳三が言う。マチ子はそれでも「食べなはれ」と試食を強いた。しかし、よくかみしめると、味は毎晩微妙に違った。出汁かげん、卵の量、調味料のバランス。マチ子はそれらを毎晩変えて、家族に出すからである。
そんな日が10日以上も続いた。そしてようやく「卵の量は、白身2個分と黄身1個分でとじるのがベスト」の結論にたどり着いた。そこで初めて親子丼をメニューにのせることにし、店のお品書きとして掲示した。
「味に妥協はない」。マチ子は、家族を辟易させ、泣かせながら、「今井の味」を作ったのだった。
家計に余裕ができ、長男、清三が新制高校に入って「めん類店の跡継ぎ」の自覚が見え始めたころから、マチ子は清三を伴ってあちこちの料理店、食堂に足を向けた。自らの舌を訓練し、後継ぎの舌を開発するためだった。弟の徳三がへそを曲げるぐらいひんぱんに出かけた。清三が同志社大に入学して以降も、それは続いた。
ある日、マチ子は粉浜に昆布店を訪ねた。店の名は知る由もない。そこで、道南産の真昆布を勧められた。函館の半島部の突端に位置する古武井浜の真昆布である。売れ行きが伸び、「和の本道」に戻る余裕も出て、牛肉から昆布にようやくたどり着いたのだ。
早速、仕入れた。その店で、鰹節とのバランスも教えてもらった。早速、昆布だしを引いてみた。が、思うようにピタッとこない。マチ子固有の舌の感覚と、試食を重ねて肥えた舌に合う味にたどり着くのに、そこから半年以上の日を費やすことになる。
赤いリンゴにくちびる寄せて
だまって見ている青い空
リンゴは何にもいわないけれど リンゴの気持ちはよくわかる
リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ
寛三とマチ子が、生きんがために食いもん屋に手をそめ、めん類店「今井」にいきついたころ、打ちひしがれた庶民の心に明るい炎をともす「リンゴの唄」が、ラジオから、レコードから流れた。戦後の劇場映画第1号「そよかぜ」の挿入主題歌。サトウハチロー作詞、万城目正の作曲である。戦後の歌謡曲のヒット第一号でもあるこの曲は、1946年(昭和21)1月にレコードが発売され、またたく間に列島のすみずみに届いた。
今井の味作りに苦心を重ねていたマチ子にも、なじみの歌だった。料理の味の決め手を欠いて呆然とするとき、この歌に励まされつつ、調理台に向かった。口ずさむこともあった。焼け跡にたたずみ、明日をどう生きるかに苦心した人たちの、そしてマチ子の、大きな励ましの曲にもなったのだった。
万城目はレコード吹き込みの時、並木路子に「明るく歌って」と何度も指示した。が、太平洋戦争で父と兄、東京大空襲で母を亡くした並木は、そんな気分にはとてもなれなかった。そんな事実を聞いた万城目は「君一人が不孝じゃあないんだ」と諭し、励まし続けた。
あの心躍る、澄んで明るい歌声はそこから生まれた。こんなエピソードも伝えられて、空前のヒットととなり、食うや食わずのその時期に、発売から2、3年で33万枚も売れた。
<筆者の独り言>
うどんのルーツを探ったので、そばのルーツもたどってみました。
史料をあさってみると、そばが日本に伝わったのは奈良時代以前のようですが、このころは農民が飢饉に備えてわずかばかりを栽培する雑穀で、「蕎麦」と書いて「そば」と読ませるようになったのは南北朝時代だとか。このころは、粒をそのまま粥にしたり、蕎麦がきや蕎麦焼きにして食べたようです。
ところで「関東(東日本)は蕎麦、関西(西日本)はうどん」とよくいわれますが、本当にそうかな、と思うことがあります。
そばの中心とされる江戸の町だって、その初期のころはめん類としての蕎麦(そば切り)は庶民には普及していませんでした。もっぱら、蕎麦がきなどの形で食べられていて、この時期のめん類としてはうどんの方に人気があったようです。
蕎麦を線状にし、私たちが現在食べるような「そば切り」の形で提供されたのは、関東では16世紀末、信州のある寺でのこと。これが最初で、またたく間に江戸にも広まったのは事実ですが、それでも、うどんだって底堅い人気を保持しました。というのも、関東平野は小麦栽培に適していて、江戸にたくさん運ばれたせいでもあります。平成10年代に入ってからのうどんの生産量をみても、一位こそ讃岐うどんの香川に譲りますが、埼玉、群馬がベスト5に名を連ねているのですから。
また、蕎麦屋の発祥地は、大阪の廓・新町(現在の西区新町)の隣接地なのです。秀吉が大坂城築城を開始した1年後の1584年(天正12)、築城の資材である砂の置き場になった地、新町廓の南西詰め辺りに、摂津の百姓が2店の蕎麦の店を開業したのが始まりなんです。砂場に生まれた蕎麦屋なので、それは「砂場蕎麦」と呼ばれました。「砂場蕎麦」は、間もなく江戸に移りますが、蕎麦の4大源流(やぶ蕎麦、更科蕎麦、砂場蕎麦、いづも蕎麦)の一つとして、今も東京に残っています。
西日本は兵庫県北部一帯や島根県山間部など、そば粉の産地が結構多いんです。そのせいもあって、京の町の「ニシンそば」が有名だし、「出石そば」や「割り子そば」に代表されるそばどころでもあります。
関西のそば、決して捨てたものではありません。
8月の「季節そば点心」は「志そ切りそば」です。
直径13㌢ほどの真竹を半分に割った、その一節分を使った器に、茶そばを上回る鮮やかな緑色のおそばが、氷をいっぱい盛った水にモミジ一枚とともに浮かんでいます。鮮やかな緑の秘密は、1㌔のそば粉に200枚もの大葉を打ち込んだことにあるのだとか。大葉の香りがいっぱいの手打ちそばを「志そそば」と名付けたそうです。頭にツンとくる冷たさのそれを、大葉も混ぜ込んだ薬味とワサビを落としたたれでいただくと、一口で暑さが吹っ飛びます。手打ちならではの食感もたまりません。
旬をふんだんに使っての点心は、いうに及ばず。食後のデザート「青梅の甘露煮」がまた素晴らしい。梅の季節の限定版で、甘露煮をかき氷で包んだ、涼感いっぱいの味わいでした。6月の季節そばからこのデザートに変わり、今月が、今年の食べおさめといったところでしょうか。
今井マチ子が出汁作りに必死になった1947年(昭和22)から49年(同24)にかけて、時代も道頓堀もめまぐるしく動いた。
高槻の植木屋が運んできて、「蕎麦処 今井」の入口右に植えられた「宵待ち柳」が評判になる一方で、角座が再建され、開場した。道頓堀に芝居の灯がようやく戻った。それはここに、にぎわいが戻る呼び水だった。
48年、中座が復活した。完成直前に寛三夫婦の次男、徳三が友人と二人で大屋根のてっぺんまで登って絶景を楽しんだ、あの中座だ。櫓(やぐら)や破風(はふ)の屋根が江戸からの風格をにじませていた。他の小屋では椅子席に切り替えたところが多かったのに、ここは客席に桟敷も残した。花道、回り舞台、定式幕もそろっていた。
その年の11月、道頓堀五座の経営権を握っていた松竹の肝いりで「松竹新喜劇」が結成され、その旗揚げ公演が中座で始まった。藤山寛美の絶頂期も中座が舞台だった。
先代の三之助まで続いた芝居茶屋「稲竹」を継いだ「稲照」が、千日前筋西の路地に移転復帰。今井の行灯より大きいそれが間借り状態から脱して、今井の店先から消えた。
一方で、やみ物資の一斉摘発が各地でスタート(47年)。同じ年の5月、日本国憲法が発布され、48年8月には進駐軍が大阪から撤収。占領の象徴ともいえた星条旗が、御堂筋から消えた。12月、極東国際軍事裁判の最終判決が下され、2週間後、東条英機らA級戦犯7人の死刑が執行された。
マチ子が「今井の出汁(だし)」を完成させたのが49年(昭和24)。きつねうどん用の出汁である。この年も、大大阪を象徴するキャバレーが道頓堀に復活。湯川秀樹がノーベル賞を受賞するなどの明るい話題が日本の復興ムードを盛り上げる一方で、下山事件、三鷹事件、松川事件と国鉄(現JR)がらみの事件が頻発した。
「マチ子の出汁」とは。
8升釜に、きつねうどんの30杯分に相当する水7升5合に、道南(北海道南部)産の天然真昆布1本をまるまる入れ、30分ほど炊く。沸騰寸前で80度ぐらいに保ちながら20分炊き、そこにサバ節、ウルメ節を入れて1分半ほど炊いたあと、漉(こ)し、絞って釜に戻す。そこに薄口醤油、みりん、砂糖、塩を加えて味を調え、全体の量を7升5合に戻してさらに沸騰させるのである。
真昆布の収穫は夏から初秋にかけて。水深7、8㍍の流れが強い海浜部に、陽光をいっぱいに浴びて密生する丈1~2㍍、幅15~25㌢の真昆布を刈り、小石で埋まった浜辺で天日干ししたあと、1年寝かす。毎年の収穫期の最初に採れたものが「今井の味」にかなうとされ、仕入れる昆布は厳密にそれを守っている。
出汁のポイントは、そんな風に収穫された「昆布の質」にかかっている。きつねうどんをおいしく食べる出汁の基本は昆布。これと、サバ、ウルメとのバランスをどうとるか、だが、真昆布のうま味はサバ、ウルメには負けないのだ。
昆布のうま味成分はグルタミン酸だ。しかし、その正体は昆布の種類によって微妙に違う。
何故違うのか。
メーカーが躍起になって追求したが、それは今もって謎。だが、「真昆布を利尻昆布に替えたら、どことなく頼りない味になる」と、現当主の今井徹は言い、その差を感じ取ることのできる舌こそが「今井」の伝統の味を守ってきたともいえそうだ。
それだけではない。「今井」は、昆布を前の晩から水に付けたりしない。そうすることでぬめりが出るのを嫌うのだ。だから、出汁を引く作業は朝一でスタートする。しかも作り置きは絶対しない。手間をいとわず八升釜を何度も何度も炊いて、出汁を引くのだ。
マチ子の時代にそこまでしたかどうか。昆布の種類の見極めを科学的に追求したかどうか。どちらも定かではない。
しかし、こだわって、こだわり続けて「きつねうどんにマッチする絶妙な味」を、マチ子が数年という長い時間をかけて作り上げたのは間違いない。そして、それは「今井の味」「今井の出汁」として今も生き続けているのだ。
それだけではない。マチ子の出汁を原点に、今や、9種もの出汁が作られている。きつね、鍋焼き用の「かけ出汁」、吸物用の「吸いもん出汁」、「あか出汁」、丼物向きの「丼地出汁」、やまかけ、ざるそば用の「ざる出汁」、「そうめん出汁」、冷やしにゅうめん用の「ひやにゅう出汁」、おでん用の「おでん出汁」である。それぞれをサバ、ウルメ、花ガツオを使い分け、独自の方法で別々に仕込むのだ。だが、昆布だけは、どの場合も真昆布なのである。
一方でマチ子は、今井オリジナルのメニューも作った。今はないが、飢餓時代を抜け出そうとした戦後にマッチした人気の豪華メニュー「子宝うどん」である。
簡単にいえば、きつねのお揚げさんの代わりに焼き豚がどっさりのったうどんである。栄養抜群。子だくさんのブタにあやかって「子宝うどん」なのである。
マチ子の城を、芝居茶屋風と「京・嵯峨野の茶店」風に飾った夫で今井5代目、寛三は「楽器店に戻りたい」という本音を隠しつつ、調理場での作業にも加わっていた。
店頭に出ることはほとんどなかったが、テンプラを揚げる仕事をよくこなした。楽器店時代、したこともなかったのに、日々の作業から揚げ方、天かすの付け方に工夫を凝らした。
エビ天の周囲に天かすをどう散らすか。普通は、衣をつけたエビを油に泳がせ、その上に指ですくった衣をふりかけて仕上げる。
寛三はまったく違った方法に行きついた。それを「巻き揚げ」と呼んだ。
丸いテンプラ鍋の中に、油がかぶる程度の高さの台を置く。台は器用な寛三が、ブリキの一斗缶を切りだして手作りした。その台に、衣をつけたエビを腹を下にしてのせた後、それとは別に衣を油の大海にまき入れる。これを箸と網で台に寄せると、寄せる力で生じた波に泳いだ天かすがエビの上にすっとのる。手早い作業が必要だが、これで、実にきれいに仕上がるのだ。ブリキの台こそ別注のステンレス製に変わったが、「巻き揚げ」の原理は今も踏襲している。
ねぎの刻み方「引き切り」も、寛三が編み出したものだ。
和食の場合、包丁を手前から奥に押し出すようにしてねぎを刻む「押し切り」が一般的だが、寛三はまったく逆の方法に行きついた。奥から手前に引いて刻むのだ。ねぎは斜めに切るのだが、押し切りだと斜めには切りにくいという。今井に入社して初めて引き切りを学んだ常務、水野勝廣は「慣れたら、引き切りの方がたくさんきれいに切れる」という。
どちらの方法も、寛三オリジナルで、理にかなった調理テクニックだった。
寛三の「見てくれ」と、マチ子の「味」が、めん類店・今井の営業を軌道に乗せた。
もちろん、時代の後押しもあった。食うや食わずの終戦直後から一転、復興の兆しが見え始め、道頓堀ににぎわいが戻りつつあったからだ。芝居も人も、キャバレーも、だ。昭和の声を聞いたころとは比べるべくもないが、米軍兵士がかっ歩し、土地の人が道の端に寄る道頓堀とは違う、江戸、明治、大正とそれぞれの時代のミナミの中心だった道頓堀のにぎわいが確実に戻ってきていた。
にぎやかに行きかうそんな人たちが、粋な造りの「今井」に魅せられ、マチ子の「味」を求めてやってきた。南地の料亭で清元をうなったこともある寛三のかつての仲間だった綺麗どころから、芝居がはねた後の役者までが「今井」の暖簾をくぐった。マチ子の友人だったミヤコ蝶々も、道頓堀に足を伸ばしたときには決まって顔を見せた。
そんな人たちが新たな客を呼んだ。徳三に言わせれば「食いもん屋を初めてからの2年は、自ら食べるのにさえ困ったが、その後は順調そのものだった」。
ともかく、食糧不足という事情が、手軽に口にできるうどん屋の経営を支えたのも事実で、面白いように売れまくったのである。
<筆者の独り言>
このところ、過去の道頓堀を訪ねて大阪市立中央図書館通いを続けています。
明治期に一度、大阪大空襲で一度燃え、平成に入っても解体中の中座のガス爆発事故で類焼するなどの被害を受け続けたせいか、「今井」に残された資料はごくわずか。江戸期の道頓堀開削のころはもちろん、今井が芝居茶屋として名をなす裏付け資料も、大大阪時代の道頓堀で輝いた楽器店時代も、かなりの部分を過去の記録で補わざるを得ません。
大阪関係の膨大な資料は、図書館3階にまとめて置かれています。行くたび、カビの臭いを我慢しながら、万の単位をはるかに超える資料がびっしりし詰まった書庫をあっちこっちと歩き回るのです。
先日、相談係の担当者に「書名に道頓堀という名を入れ込んだ資料の一覧表がほしいのですが」と、相当無理と思われるお願いをしてみました。
「ちょっと待って」と担当者。「ちょっと」はわずか3分でした。相談窓口とはまったく別のところに置いてあるコピー機からA4で3枚つづりの一覧を持ってきてくれたのです。
あるある。中央図書館が所有するだけで総数90冊。
すでに読み終えた「遥かなり道頓堀」(三田純市著)や「道頓堀の雨に別れて以来なり上・中・下」(田辺聖子著)、そして「道頓堀裁判」(牧英正著)。「阪神ファンよ、飛び込むことなかれ-道頓堀応援団」(アスク編集部)や「ストリップ血風録-道頓堀劇場主・矢野浩祐伝」(日名子暁著)といった変わったタイトルのものも。
すごいのは今の土地謄本の江戸時代版、あるいは明治時代初期版ともいうべき「水帳」がかなり残されていることです。宗右衛門町、九郎右衛門町、久左衛門町など町名ごとに14冊もあるのです。これらを克明にたどれば、この時期の「今井」もリアルに再現できるかも、と思ったりしました。
今井楽器店から大転換して、寒天から氷水を売り、ぜんざいを売り、内緒ながらめん類を提供することにいきついたのが1946年(昭和21)の秋。今井の5代目、今井寛三とマチ子の、こんないき方にそれなりの手ごたえはあった。調理場から店先の客の応対まで、マチ子を先頭に、一家総出で働いた。しかし、それで家族が楽に食べられるところまではなかなかいかない。稲わらの上に茣蓙(ござ)を敷いただけの家族部屋に、その年のうちに畳が入ったのだけが大きな生活の変化だった。
そして大転換の年が暮れ、焼け野が原のままの道頓堀に新しい47年がきた。
この正月ほどみじめなものはなかった。食うや食わずの新春だった。ひもじさだけが残った。「何にもない正月って、あん時だけやったかもしれん」と、一家で最年少だった今井徳三は振り返る。
それでも、家があり、ふとんがある生活はまだまし、ともいえた。通りに出ると、浮浪児が米兵の捨てた空き缶を手にさまよい、川を隔てた宗右衛門町の北のあちこちには、板囲いの上に雨よけのブリキを置いただけの小屋からのぼる煙が幾筋も見えた。壕舎といわれる「住宅」があちこちにできた。戦時中、空襲の際に避難するために作られた防空壕が、多くの人たちの寝起きの場に変わったのである。大きい壕舎には10人以上の人たちが入った。外よりはまし、という程度のにわか住宅で、多くの人が寒さをしのいだ。
最後の大阪大空襲。そして敗戦。そこから1年半しかたっていない大阪の新年は、復興の掛け声からほど遠かったのだった。
春が去り、初夏がきた。
めん類を売る店として回転し始めた「今井」の店先に、疎開していた高槻の知り合いの植木屋が中ぶりの柳の木を運んできた。それは入口の右側に植えられた。川べりの道頓堀なのに、柳はまったくといっていいほど植えられていないから、結構目立った。 寛三はそれを「宵待ち柳」と名付けた。赤い灯青い灯がともる宵の町を待ち焦がれる柳なのである。そして、入口に「御蕎麦処 今井」の暖簾も下がった。
中座の隣の、宵待ち柳と芝居茶屋の風情を残した行灯のある店構え。「御蕎麦処 今井」には、けばけばしいムードの周囲の店とは違う雰囲気があって、きつねうどんを中心に味の良さも評判となり始めた。常連客も付き始めた。
「とっても手が足らん」
誰に話しかけるのでもなく、マチ子はつぶやいた。もちろん寛三に聞こえるように、である。1948年(昭和23)に入ると、「御蕎麦処 今井」が大勢の客でにぎわい、特に昼時は客が列をなした。開店以来、家族だけの手でやってきたのだが、それだけでは足りなくなってきたのだ。
女手といえばマチ子に長女の宏子、姑のコマしかいない。男手は寛三一人だけ。長男の清三は高校に入ったばかりだったし、末っ子の徳三は小学生である。とても戦力にはならなかった。売り上げを定着させ、客を待たせずに注文をさばくにはもう限界だった。
「だれぞ、雇いましょか」
マチ子は、別の機会にそれとなく寛三に持ちかけた。中座が再興され、東の角座と並んで道頓堀に芝居の町の活気が戻りつつあった49年(昭和24)の秋口だっただろうか。焼け野が原から脱し、ようやく町の体裁も整い始めたころだった。
寛三がその場ではっきり答えを出したわけではなかった。が、昼と芝居が終わる時間の店の混み具合から、家族の手だけではどうにもならない状態なのは言われなくともわかっていた。
暮れも押し詰まったころ、寛三は「雇わんと、しゃあないなあ」とマチ子に言った。
大大阪を象徴したカフェ・パウリスタの跡地に開店した食堂の店先に「くいだおれ人形」が登場した50年(同25)の早々に、「今井」は女子従業員2人を迎えた。戦争未亡人の「やの」さんと「やまと」さんである。末っ子の徳三は、その名を今も覚えている。
朝鮮戦争が始まって、日本全体が「特需」に酔い、糸へん、金へん景気が世相を明るくした時期。物資の配給や統制が次々と撤廃され、食堂経営の自由度は飛躍的に増し、何でも売ることができる時代にさしかかっていた。このままいけば、ものはさらに売れる。そんな時期なのに今井家ではこの秋、長女、宏子が裏千家出入りの茶道具商、十菱家の長男、福太郎(よしたろう)に嫁ぐことが決まっていた。久々の慶事はさらに人手不足を招くことでもあった。「御蕎麦処今井」が従業員を採るのも、ある意味で必然だったのである。
従業員教育はマチ子の仕事だった。まず、出汁の引き方を教えた。真昆布とサバ・ウルメ節の分量のバランスからその管理まで。マチ子は自ら作り上げた秘伝の味を徹底して教えた。メニューの一つ一つも丁寧に教えた。そして最後に、手間を惜しまずに作り上げる店のありようを説いた。
テンプラの揚げ方は寛三の担当である。引き切りを伝授したのも寛三だった。
人を雇う――冒険だったが、成功だった。ひところの超インフレが去り、人々の暮らしに明るさが増していった時期とも重なって、「御蕎麦処今井」の忙しさに拍車がかかっていく。51年(同26)9月、対日平和条約と日米安全保障条約が調印、翌年4月に発効されて日本は独立。新生日本としての歩みを始めたころから、経営は軌道に乗った。
うどんが、そばが飛ぶように売れた。それまでは乾麺だっためん類は、近くの製麺業者から仕入れる「ゆでめん」に変わった。革命ともいえる大変化だった。
占領状態の大阪の町からは、米兵が消えた。戎橋南詰の米軍専用のバーも、接収されていたそごう百貨店の「PⅩ」(米軍購買部)もなくなって百貨店が戻った。御堂筋に面したガスビルも日生ビルも、すべて接収から解放されたのだった。
道頓堀が昔の活気を取り戻した時期と、それは重なった。芝居の隆盛が戻りつつあった。それは、松竹がすべてを飲み込んだ芝居町の新たな誕生でもあった。
同時にその時代は、「今井」の従業員がどんどん増えていく時期とも重なっていた。55年(昭和30)4月、同志社大を卒業したばかりの6代目、清三が入社。5年で従業員は増え続け、計9人にもなった。家族営業から脱した「今井」の成長の時代でもあった。
雇用されたのは女性ばかりだった。戦争未亡人が多かった。マチ子が、女性しか雇わなかったのである。未亡人を多く雇ったのは、人助けでもあった。同時にマチ子の「男はんを雇ったら、今井の味が盗まれる」との考え方の反映でもあったようだ。
寛三とマチ子から6代目、清三に代替わりしながら、「女の園・今井」は昭和40年代初頭まで続いた。
清三が入社した年の6月、「わてほんまによういわんわ」の流行語を生んだレコード「買い物ブギ」が発売された。
道頓堀で音楽人生をスタートさせた服部良一が作詞、作曲。宝塚受験に失敗し、「ほなら、道頓堀で一人前になる」と松竹楽劇部生徒養成所入り、0SKのスターから歌手に転じた笠置シヅ子が歌った。歌詞のすべてが大阪弁という、それまでにないけったいな歌だった。しかし、流れるような笠置の歌いぶりと軽快なアクションで爆発的に売れ、発売枚数はあっという間に45万枚を超えた。
笠置の素顔は、苦労人で努力家、スターらしくない堅実な人柄だった。そして何より戦争孤児に涙し、「私も同じ立場や」といいながら戦争未亡人に肩入れし、支援を惜しまない人だった。(「ブギの女王・笠置シヅ子」砂古口早苗)
マチ子と笠置シヅ子。戦争未亡人をキーワードに、そのイメージがどこかダブった。
<筆者の独り言>
道頓堀で「世界最大の盆踊り大会」のギネス世界記録を達成。こんなニュースが8月17日の大阪の朝刊をにぎわしたのをご存知でしたか。そうなんです。前夜、道頓堀川両岸の道頓堀橋から日本橋までの「とんぼりリバーウォーク」約500mに設けられた特説会場で行われた「道頓堀盆踊りインターナショナル2015」に、2000人を超える浴衣姿の男女が参加して踊りを披露。参加人数でこれまでの記録(2001年に栃木県で記録された1932人)を大きく上回り、世界一に認定されたのです。
盆踊りは、道頓堀今井の今井徹社長が会長を務める道頓堀商店会の夏の恒例行事。以前から「(開削400年の)今年は大きいことをやりまっせ」と聞いていたので、ギネスに挑戦の当日は午後6時前から現場で待機し、その瞬間を待ち受けました。
踊りは午後6時過ぎに開始。あいにくと雨もちらつき加減。開始直前、本部席にいた今井会長から「(人数が)ちょっと足りません」と聞きましたから「(記録達成は)難しいかも」 とドキドキ。予想通り、この時は約100人不足で記録更新は成らず。
ギネスの規定では、3回まで挑戦できるのだそうで、やり直しです。
特設ステージのマイクが新たな参加者を募り始めました。盆踊りの曲を作った嘉門達夫さんもステージから必死に参加を呼びかけます。
で、1時間が過ぎ、新たな挑戦。新しい踊りの輪が動き始めました。踊りは5分間以上続けなければならない規定らしく、途中でやすんだり、踊りの輪から抜けたりしてもダメ。そんな厳しいチェックの中を踊りは続きました。終わっての厳正な審査が30分をはるかに超えて続き、ギネスの責任者が今井会長に認定証を渡したのは8時を回っていたようです。本当に長~い、ドキドキの一夜でした。
9月の季節そば点心は「そば若狭蒸し」です。
薄く塩をしたアマダイを酒蒸しにし、マツタケと一緒にお出汁でさっと炊いてそばにかけ、数粒の銀杏をそこに落とすのです。季節そばシリーズでは久々の熱々そばですが、長さ約10円㌢の太いマツタケが二きれと、プリプリのアマダイの厚くて大きいこと。アマダイの旨味とマツタケの香りがなんともいえません。点心にはクリ、ギンナンにイチジクのゴマダレ和えと季節がふんだんに盛り付けられ、そばをノリで巻いて揚げた揚げ巻きそば、きぬかつぎからマナガツオと豪華。
残暑の季節ながら、秋の気配がいっぱいのおそばでした。