芝居とジャズと、宵待柳


第5章 芝居茶屋1

 牡蠣(かき)船は 貸を残して国へ立ち (岸本水府)

 

 朝まだき、道頓堀川の戎橋下に係留された数隻の牡蠣船から、白い前垂れの少女たちがまなこをこすりながら起き出してきて、船尾で牡蠣殻をむく作業を始めた。小女郎(こめろう)と呼ばれた下働きの子たちだ。

 どの時代でも不夜城といえる道頓堀だが、この時間だけはさすがに人影はまばら。牡蠣船がくる中秋には、寒気も忍び寄ってくる。少女たちのはく息も白い。朝の出前はないが、昼以降の芝居茶屋などからの注文をきっちりさばくには、お天道様に負けない早起きで準備を始めるのだ。

 

 「浪華の一奇なり」(摂津名所図会大成)といわれた牡蠣船は、華やかな元禄を過ぎて間もない1708年(宝永5)ごろに始まったとされる。

 この年の12月29日未明、道修町付近から出火、正月を超えてようやくおさまった。65町の1501軒が消失する大火だった。出火直後、高麗橋の下に船をつないでいた牡蠣船の船頭が、橋の上の制札(高札)が火にまかれそうになるのに気付いた。船頭は駆け上がって高札のすべてを引き抜いて船に積み込み、天満橋あたりにまで逃げてそれを守り、鎮火後、町の年寄りに届けた。これを知った大坂城代らが船頭の功を賞し、牡蠣船の堀への係留と営業を認めたという。

 以来、安芸国佐伯郡の草津村と仁保村(現在の広島市)から20数隻が道頓堀川、土佐堀川、堂島川など大坂のなじみの浜にやってきて、10月中旬の同じ日に一斉に営業を始めるのだ。

 道頓堀川への牡蠣船係留は特に多かった。人出が多かったせいである。戎橋から日本橋まで、4つの橋の橋げたにつながれた船は、秋から冬にかけての風物詩。いくつかの小部屋を持ち、牡蠣だけを商う。商談の舞台でもあったが、道ならぬ恋の花咲く出合茶屋でもあった。それは形をかえつつ、昭和の時代まで続いた。

 水府の句は、春を迎えて国に戻る牡蠣船が常連さんの残したつけを来年回しにする、そんな光景を彷彿(ほうふつ)とさせる。冬場の道頓堀の風物詩であり、にぎわいの一つでもあった。

 

古い書物にみられる「稲竹」の印鑑
古い書物にみられる「稲竹」の印鑑

 小女郎と変わらないくらい、あるいはそれ以上に早起きだったのは、芝居茶屋のお茶子たちである。

 今井の2代目、たけが中座向かいに「稲竹」の暖簾を掲げた天保のころには、芝居茶屋は60軒を超えていた。通りの両側には5座を中心に中小の小屋が並び、それらを囲むように芝居茶屋がびっしり並んだ。

 それらのお店のお茶子たちが一斉に起き出すのが壮観だった。茶屋裏の船着場に勢ぞろいし、猪牙船(ちょきぶね)で姿を見せ始めた観劇の得意客を迎えるのだ。静寂が一挙にざわめきに変わり、道頓堀のにぎわいが始まるのだった。

 このころ、芝居小屋は朝の6時ごろに開場した。電気のような人口光はもちろんない。自然光だけで芝居を始めるとなると、「夜明けとともに」が当たり前だった。開場前、小屋の天窓をすべて開け、開演の知らせでもある「三番叟(さんばそう)」から始まって、芝居に入るのである。そして夕方は、日暮れとともに閉演である。万事、お天道様任せだった。

 大坂からの客の多くは夜、最寄りの堀川に浮かべた舟で東横堀川か西横堀川を経て道頓堀川へ。大坂以外からやってくる芝居客の大半は前夜に八軒家浜に着く。そこで小舟に乗り換えて東横堀川を下り、道頓堀川に入る。あとはわずかに西に漕ぎ出すだけ。お目当ての芝居茶屋の船着場で止め、屋号を書き込んだちょうちんをかざすお茶子の出迎えで茶屋に上がる。満潮とも重なって、満ちた潮が足元を濡らすこともしばしばだった。

 茶屋に上がった客は簡単な食事をしたり、仮眠をとったり。それぞれのスタイルで夜明けまでを過ごし、朝、開場前に着替えなどを済ませ、茶屋の前から履物をはかないまま、簀の子(すのこ)の渡し板を踏んで劇場入りし、茶屋が用意した指定席に座る。当時の観劇スタイルに、芝居茶屋はなくてはならない存在だった。

 大坂や大坂周辺の客は朝方の4時、5時にはちょうちんを灯して芝居茶屋に入る。開演までの時間に着替えから色直しまでをし、渡し板を踏むのだ。

 

 芝居には幕間がある。当時はこれがやたらと長かった。2時間はざら。時には3時間を超えることもある。客らは芝居茶屋に戻ってこの時間を過ごす。飲み、食べ、語り、その世話のすべてをお茶子がした。時には桟敷の客の席に飲み物、食べ物を運んだ。

芝居茶屋には3~4人のお茶子がいた。「おちょぼ」と呼ばれる女の子もいた。12、3歳で、いわばお茶子見習いである。茶屋の使い走りをしながらお茶子の仕事を覚えていくのだ。

 茶屋の男といえば、帳場に座る旦那だけである。その意味では、そこは女の世界だ。得意客のチケットの手配から指定席の座布団の用意まで、すべてがお茶子の仕事だ。それぞれの茶屋のトップのお茶子は女番頭とよばれ、お得意さんの注文によっては、他の店の女番頭とやりあい、席の融通のしあいまでこなした。客からいただく心づけ(チップ)は女番頭が受け取り、月末ごとにお茶子全員に分配した。何から何までお茶子の仕事で、旦那はお茶子の働き場所を提供しているだけ、といった風情でもあった。

 

 「今井」の2代目、たけが経営した「稲竹」も、たまたま女性経営者がいただけで、お茶子がすべての世界だった。江戸から明治への変わり目をしのいだ3代目、今井佐兵衛の時代も、芝居小屋と芝居茶屋の持ちつ持たれつは続いた。鴻池家が「稲竹」の得意先となったのもこんな時期だった。江戸・文化文政から天保の時期ににぎわいのピークを迎えた道頓堀が、明治のある時期には、それを上回るにぎわいに酔ったのである。

 

 1876年(明治9)は火焔が道頓堀を襲った年だった。1月8日、「若太夫の芝居」から出火し、「竹田の芝居」も焼失。2月20日には「築後の芝居」の隣家から出火、724戸が焼け、150人余が死亡。「筑後の芝居」「中の芝居」「角の芝居」も類焼した。人は道頓堀大火と呼んだ。1月に焼けたのに仮普請で開場し、こけら落とし興行中だった「竹田の芝居」が4月18日にまた火を出し、類焼12軒、59人が焼死する惨事となった。

 84年(明治17)5月、前年に大阪にお目見えしたばかりの電灯(アーク灯)が「中座」にともった。中村梅玉が「日蓮記」を上演した際の舞台照明に使われたのだ。千日前・竹林寺境内に発電機を設置し、架線で中座に送電した。それまでの芝居小屋の照明は、ろうそく、ランプだった。当時配布されたビラには「その火光は、一燈にして数町の遠きを照らし、あたかも白昼に異ならず」と書かれ、「昼をあざむく明るさ」と評判になった。

 

 そんな「中座」が12月に火を出した。全焼。向かい側(浜側)にあった今井3代目、今井佐兵衛経営の芝居茶屋「稲竹」も類焼した。ピンチだった。しかし、翌85年11月の中座再開場の直前、南側の小屋東隣に新しい暖簾を吊ったのだった。移った理由は不明だが、中座の補償による移転新築だった公算大である。

 新たな店には、客の入口とは別に店の東側の法善寺につながる路地に勝手口があった。その南隣が「中座」の楽屋口だった。中村鴈次郎、片岡我当(後の11代片岡仁左衛門)らもここから出入りした。中座と稲竹は、ぴったりのお隣さんだった。

 

 船着き場を持たなくなった「稲竹」は、得意客の舟を日本橋や相合橋のたもとに着けさせ、お茶子が店名入りのちょうちんを手に川岸で出迎え、店に伴った。

 


<筆者の独り言>

 この7日から道頓堀の大阪松竹座で始まった「松竹新喜劇」の錦秋公演の昼の部に、道頓堀開削400年にちなんだ「はるかなり道頓堀」が登場したのを機に、16日、同座に足を運びました。2代目渋谷天外(舘直志)作で本人と藤山寛美が演じた、昭和の道頓堀の芝居茶屋が舞台の長編喜劇。今回は劇団代表の3代目渋谷天外や、藤山寛美の孫、藤山扇治郎が出演する人情芝居です。

 開削400年という今年ならではの演目に加え、筆者自身もこの町に浸りきっているだけに、どんな描き方になるのか興味津々だったのと、演題と同じ「遥(はる)かなり道頓堀」という小説を、初夏のころに繰り返し読んでいて、同じタイトルのものがどんな違いで見せるのか、への興味もありました。小説は、「今井」の2~4代目が経営していた芝居茶屋「稲竹」の営業権を譲り受け、戦後まで「稲照」を経営した野村照さんを祖母に持つ作家、三田純市さんがお書きになったもので、大正期から昭和の道頓堀と、芝居茶屋の実相を正確に写し取った貴重な資料です。

 結論から言えば、お芝居と小説はまったく別物。お芝居は二代目天外さんが自らのことをベースに実話も取り込んで、芝居茶屋を舞台にした人情話に仕立て上げた泣き笑いの物語。三田さんの小説は道頓堀の実写本といった趣のもので、「ひょっとして共通する場面があるかも」という筆者の思惑は見事に外れました。

 それはそうなのです。観劇前、三代目天外さんの楽屋に挨拶に伺い、「演題が似てますねえ」と申し上げたところ、天外さんの答えは以下のようでした。

 三田さんが小説をお書きになり、タイトルをどうしようか悩みつつ、天外さんの父でもある先代天外さんに相談したところ、「これを使いなはれ」というてくれたんが、芝居の演題でもあった「はるか(遥か)なり道頓堀」だったというわけなのです。タイトルは一緒でも中身はまったく別、の理由がこれで分かりました。

 それにしても、この日のお芝居は「道頓堀賛歌」そのもの。「道頓堀は第二のふるさと」「道頓堀は大阪の顔や」「お前は道頓堀の新しい顔にならなあかん」といったセリフが随所に出てくるし、芝居の最初と最後は「赤い灯青い灯」でおなじみの「道頓堀行進曲」ですから。芝居茶屋の風景も道頓堀ならでは。お茶子が、その見習いである「おちょぼ」も三田さんの小説と一緒の風情で登場するなど、昭和初期の道頓堀そのものの再現でした。

で、そのストーリーは?ですって。それは観てのお楽しみ。公演は今月の23日まで。あなたも大阪松竹座にぜひお運びください。  

第5章 芝居茶屋2

 芝居茶屋の一日、そして、そこの働き手でもあるお茶子の一日は、いったいどんなものだったのだろうか。

太平洋戦争以降も暖簾をかかげ続けた芝居茶屋「稲照」に生まれ、芝居に関連することを仕事とした作家、三田純市は自著「道頓堀 川・橋・芝居」で「いま思い出しているのだが、相当にめまぐるしい毎日だった」と振り返っている。

 

 朝起きると、玄関表と座敷の掃除がお茶子の仕事の始まり。そして、客を芝居小屋へと案内する準備に入る。座布団をそれぞれの得意客の席に敷いていく。次に縦長の箱型をした煙草盆、茶箱、菓子箱を用意し、客の好みを心得て菓子の中身を変えて詰める作業だ。並行して、帳場は電話で弁当の注文をそれぞれの料理屋に入れる。

 客の小屋入りの準備が整うと準備したものを抱えて案内し、帰りに下足を預かって店に戻る。店ではこれに番号札をつけて下駄箱にしまう。何組もの客についてこれを繰り返すのだから、お茶子は小屋と店の間を何往復もしなければならない。

 昼は弁当の準備と運び入れ。夜は客を送り出してからの後始末。自ら風呂を使って床に入るのは深夜、という日が続く。

 休みはまるでないにひとしい。そのせいか「(お茶子には)男っぽい女が多かった」と三田純市は言う。この商売、客へのお世辞は必要だが、色気や媚びを売る必要はない。着物も短めに着て白粉っ気もなく、三田に言わせると「キリキリシャンと立ち働く男勝りが多かった」ようだ。

 

 日清、日露の戦争に勝利し、世界列強の仲間入りを果たした日本は、繊維産業の急速な伸びで経済的にも「豊かなアジアの大国」に成長していった。大阪はその中心にあって、急激に膨張を重ねた。

 

 大阪は、明治維新が成った当初とその前夜、不況のどん底にあえいだ。幕藩体制の崩壊とともに大名貸しの返済が不可能となり、豪商が相次いで倒産の憂き目にあったからである。

 大阪の人口の変動が、それを如実に物語っている。宝暦(1751年)から明和末(1771年)にかけ、それまでの最高の42万人を超えた人口が、明治維新には28万人に激減したのだ。

 それが、大阪市誕生の1889年(明治22)には46万人に回復し、日露戦争後は急激に増えて、初めて100万人を突破。市域拡張をも果たした25年(大正14)には211万人を記録し、東京を抜いて日本一の巨大都市「大大阪」の実現を見たのだ。

 

 

 維新の時からそれまで、「今井」は良くも悪くも激震する時代に翻弄された。

 1869年(明治2)、今井の3代目、今井佐兵衛が27歳で倉造ゑいと結婚。翌年には4代目、三之助が誕生した。

 この年、新政府は千日前の刑場を廃止し、隣接の墓地も阿倍野に移してそこを無償で払い下げた。ここに、千日前歓楽街の曙となる軽業・曲馬の見世物小屋が建ち始め、道頓堀を含むミナミの様相が一変した。歓楽のエリアがとてつもなく広がったのに加え、これまでになかった芸能のジャンルも広がった。

 芝居小屋では歌舞伎、人形浄瑠璃の興行が続けられる一方で、角藤定憲の新派劇(壮士劇)、高揚する自由民権のうねりを反映した政談演説会までが芝居小屋で開かれた。81年(明治14)、板垣退助を迎えて戎座で開かれた政談演説会などは傍聴希望者が5000人を超えたという。

 それまで考えられることもなかったシェークスピア劇も、ここで競演された。

 

 維新以来の苦労もあってか、3代目の佐兵衛は早々に引退、4代目、三之助が20歳の若さで「稲竹」を継いだ。92年(同25)12月、三之助は川勝キヌと結婚。1年3か月後に長男、勝一が誕生したが、20日足らずで逝った。さらにその3週間後にはキヌが後を追って亡くなった。19歳の若さでの死だった。

 95年(同28)、三之助は自分の子を宿していた山本千代と再婚。翌年2月11日、5代目、寛三が誕生したが、半年後、今度は千代が逝った。18歳だった。

 

 三之助の再婚の年は松竹創業の年と重なる。

 松竹は、大谷竹次郎が京都・亀井座を買収し、興行主となった年を「創業の年」としている。竹次郎はその後、双子の兄、白井松次郎と図って1902年(明治28)に「松竹(まつたけ)合名会社」を設立。竹次郎が関東の、松次郎が関西の社長となった。

 松次郎は06年2月、初代中村鴈次郎と提携し、鴈次郎の中座での興行のすべてを仕切った。これを第一歩とし、3、4、5月と中座を借り、鴈次郎を連続出演させ、道頓堀での興行の中心的存在になっていく。そして、09年(同42)、京都・南座の買収に続いて朝日座と文楽座を買収した。これを手始めに、角座(17年)、中座(18年)を買収。19年(大正8)には弁天座を手中に収め、いわゆる道頓堀五座のすべてを支配下に置いたのだった。

 その一方で、松次郎は旧弊を打破する近代的な興行システムを道頓堀に導入していった。

 この時期までの道頓堀は「仕打」「太夫元」といわれた興行師が仕切る興行だった。土地の大ボスによる芝居の支配である。 「仕打」の力は相当大きく、道頓堀の各座は「仕打」の手から手へ転々とした歴史を持っている。

 松次郎はまず、これらのボスを無視し、興行時間を大幅に短縮した。このころの道頓堀の興行は午前7時か8時の開幕。遅くとも午前10時には芝居が始まり、夜の11時から12時まで、えんえんと続くのが普通だった。芝居見物は一日がかりの物見遊山という江戸以来の気風だった。これだと、よほど時間のある人しか芝居は見ることができない。

 これを、松次郎は開演を午後5時とした。これは芝居の町をびっくりさせ、非難も浴びた。身辺が危険にさらされもした。しかし、松次郎はこれを強引に通した。これが、時間の経済ということで大いに受け、相当な成績を上げた。それは、革命といってもよかった。

 

 だが、興行の近代化は、芝居茶屋の存在をあやうくもした。

 アーク灯を手始めに電灯が芝居小屋にひかれると、夜間興行が可能になる。しかも興行時間は短い。勤め帰りの観劇も可能になり、観客層が広がる一方で観劇スタイルが一変した。幕間が必要とされず、客が茶屋に戻って時間をつぶす必要がなくなったのだ。

 日清戦争直前、芝居茶屋がピークの60余軒を数えて以降、茶屋の数が目立って減り始めた。日露戦争のころには、これが10数件に減った。

 芝居茶屋を必要としなくなったことが、予想を超えて芝居の凋落をも招いてしまう、そんな悪循環に道頓堀は見舞われていく。

 

 

 大正期は今井の4代目、三之助と5代目、寛三が、楽器店への転換を考えなければならなくなった時代の入口だった。 


 <筆者の独り言>

 

 明治以降の道頓堀の変遷に、当時誕生したばかりの新聞はどうかかわったのか。この連載を始めてから気になっていたのですが、その答えに近付くレポートを見つけました。

 

「大阪の近代大都市の息づかい」(大谷渡編著)です。大谷さんはその第三章で「新聞作家と道頓堀五座」という項目を立て、詳しく触れています。

 

 道頓堀の演劇興行に近代化の波が押し寄せたのは1880年代といわれているのですが、こうした流れと新聞小説は切っても切れない関係にあった、と大谷さんはいうのです。この時期の直前に大阪に誕生した大阪朝日、大阪毎日が部数を増やす競争の一つの方法として小説の連載に力を入れ、演劇の近代化の流れの中で、これらの新聞連載小説が脚色されて上演され、観客を引き付けたからです。

 

 大谷さんによると、新聞小説を原作とした演劇の上演は75年(明治8)ごろから始まり、87年ごろにはその流れが定着し、大正、昭和初期へと受け継がれました。その中心にいたのが大阪朝日新聞記者で小説家、宇田川文海でした。82年(明治15)9月、中座で上演された「盛名橘北国奇談」は、その年の大坂朝日に連載された宇田川の小説を脚色改題して上演されたものですし、84年(明治17)に戎座で上演された「若緑二葉松」は同じく大阪朝日連載の宇田川の小説「勤王佐幕巷説二葉松」を脚色したものでした。

 

 さらにすごいのは翌85年(同18)、シェークスピアの「ベニスの商人」が宇田川の手で「何桜彼桜銭世中(さくらどきぜにのよのなか)」の題で翻案され、大阪朝日新聞に連載中の5月に、戎座で芝居化されたことです。シェークスピア劇の本邦初演といわれるものなのですが、間もなく、脚本を少し変えたものが朝日座でも上演され、奇しくも、シェークスピア劇が道頓堀で競演されることになりました。

 

 一方、大阪毎日が抱えた人気小説家は菊池幽芳でした。菊池の小説「己が罪」は99年(明治32)から全編、翌年1月から連載され、その爆発的な人気で大阪毎日の発行部数が大きく伸び、大阪朝日と並んだといいます。これを原作とした劇は1900年(明治33)の10月から上演され始め、36年(昭和11)まで各地で上演され続けました。

 

 菊池はこの後「乳姉妹(ちきょうだい)」をヒットさせ、これも04年1月の朝日座上演を皮切りに26年(大正15)あたりまで上演されたといいます。

 

 この時期、道頓堀5座はこぞって新聞小説を脚色・上演し、1881年(明治14)から1892年(明治25)までの12年間に、大阪市内の劇場での新聞小説の上演回数は213回に及びます。

 

 まさしく、新聞が演劇の素材を提供し、新たな演劇ジャンルを作ったと言えなくもありません。その意味では、新聞が明治から昭和初期の道頓堀の本流を支えたのでした。

 

 筆者が所属していた新聞社を含め、新聞の自慢話なので「独り言」で触れたのですが、当時の新聞の影響力の大きさに驚かされます。

 

 

 

 

12月ゆずあん
12月ゆずあん

 さて、12月の季節そばは「柚子(ゆず)あんそば」です。

 酒蒸しにしたアマダイと輪切りの柚子を出汁で軽く炊き、ゆがいたほうれん草と一緒にそばの上に盛り付け、淡く葛(くず)をひいた出汁をかけました。アマダイのうま味と柚子の酸味と苦味が出汁に溶け出し、「大人の味」をかもします。しかも、葛をひいた出汁のぬくもりが体中に広がり、はく息も白い師走にぴったりの一品です。

 

 

 添えられた点心、デザートがまたすごい。柚子の姿煮の中に白子、ギンナン、ユリ根などを炊き込んで詰め、上に柚子みそを盛った「柚子釜」をメーンに、サーモンとイカの椿すし、大根の薄切りにカラスミをはさんだカラスミ大根、エビイモにイクラを乗せた菊花かぶらと、豪華そのもの。口にするのが惜しいくらい。デザートは、富有柿とレモンスライスを挟み込んだキウイフルーツ砂糖漬。含むと溶けそうなおいしさでした。