芝居とジャズと、宵待柳


第4章 芝居の起こり、道頓堀の起こり、今井の起こり1

写真:STUDIO MODEL K's レンジャー前田
写真:STUDIO MODEL K's レンジャー前田

 天下統一を果たした豊臣秀吉の偉業を象徴する出来事が、1583年(天正11)9月に始められた大坂城築城だった。5層8階の豪壮な、そしてきらびやかな天守が上町台地北端にそびえ、織田信長の巨大、異風な安土城を見慣れた戦国武士でさえ、そのスケールの大きさに度肝を抜かれたのだった。

 築城と並行して秀吉は、「大坂の町づくり」をもスタートさせた。城から真南の堺に伸ばすはずだった町割りが、着手直後に変更され、西へと伸びていく。工事に動員されたのは最初、2万人だった。しかし、2か月後には5万人にふくれあがった。築城作業と同時に、大名には城の周辺に邸宅を営むよう、秀吉の命がくだったからだ。各大名とも自前の作業員をどっと増やし、こぞって、その完成を急いだ。「わずか40日の間に、7000戸もの家並みが周辺の城南、城西の地に立ち並んだ」(ルイス・フロイス報告)という。

 江戸時代になって、大坂三郷の中心となる「北組」あたりに市街地が開けていく。93年(文禄2)、秀頼が誕生。翌年2月には、築城作業の総仕上げでもある惣構え堀(城の一番外側の防御施設)の普請を開始した。

 まず、東横堀川を開削した。元々は防御施設だったが、舟運の施設としても重要な意味を持ち、これを手始めに、大坂の街並みの縦横に堀川が開削されていった。城のある上町台地の西側は、満潮ともなると台地の裾まで潮が満ちてくる湿地帯だったから、堀川を作ることで得た土砂を湿地に積み上げて住宅地とし、堀川は交通路として使う。一石二鳥の都市づくりがこの時期に急速に進んだ。

 そのあと、秀吉は毛利輝元、小早川隆景、吉川広家や諸大名に命じ、大坂三郷・天満組をなめるように下る淀川右岸の築堤工事に当たらせた。一帯は毛馬を出て左にうねった流れが天満橋付近で右にカーブするあたり。増水のたびに天満一帯が水につかるのを防ぐためだった。諸大名は天満の地に数メートルの土盛りをし、これを完成させた。現在、帝国ホテルのある一帯で、河岸からなだらかな勾配の土盛り跡が確認でき、それは「太閤堤」と呼ばれて今もある。

 秀吉の町づくりはそこまでだった。堤が完成をみた2年後の98年(慶長3)8月、秀吉は秀頼の明日を案じながら63歳で逝った。二度目の朝鮮出兵とされる「慶長の役」のさなかでもあった。

とはいえ、秀吉ほど城づくりと城下町づくりに執念を燃やした人物はかつていなかった。それも、天下を勝ち取る作業と並行して進めなければならないという制約があったなかでのことである。

 築城作業を始めた年は、柴田勝家と賤ヶ岳(滋賀)で戦い、勝利。翌年、長久手の戦では徳川家康に敗れた。1587年(天正15)に九州を平定、90年(同18)に小田原を征伐した。そのあとは、側近の多くが反対したという朝鮮出兵(文禄の役、慶長の役)である。秀吉は戦いながら大坂城を作り、町づくりを進めたのである。

 94年(文禄3)に開削された東横堀川の東側に町人たちが住むエリアが広がったものの、その西側、今の道修町あたりには家がぽつんぽつんとでき始めたところ。「北組」の中心がこの状態だから、「南組」とされた南部地域の大半は無人の葦原が広がる湿地帯のままだった。天下の台所として誇るべき大坂の完成は、江戸の世を待たなければならなかった。

 大坂城築城が始まる前年、平野郷町の成安(安井)道頓が秀吉から拝領したとされる「城南の地」も、例外ではなかった。城の東側を南北に走る外堀(平野川、猫間川)整備に功があった恩賞といわれ、それは今の道頓堀周辺の土地なのだが、葦がびっしりと生え、朝夕の満潮時には潮がひたひたと寄せてくる湿地帯。もちろん、人が住むようなところではまったくなかった。

「なんとかならないものか」。道頓はその利用方法を懸命に考えたものの、名案は浮かばず、時ばかりが過ぎた。

 

 秀吉が逝った年の暮れ、「天満堀川」が、東横堀川に続く2本目の堀として開削され、石田三成らの西軍が惨敗に終わった関ヶ原の戦い(1600年)の後には「阿波堀川」、「西横堀川」の開削工事が完成した。堀川には何艘もの小舟が行きかい始めた。

「これだ」。堀川の両岸のにぎわいを目にし、道頓がひざを打って堀川開削を考えたのも、想像に難くない。

 

 12年の歳月が流れた1612年(慶長17)のある日だった。道頓は、所有地の東端、上町台地の西面に建つ高津宮(こうずぐう=高津神社)の一角を源流として、わが土地を通って西に小さな、しかし急な流れを作っていた梅の川(梅川)のほとりにたたずんでいた。宮の表門である大鳥居から北に50mほど入った、梅乃橋(梅の橋)があるあたりである。

 梅乃橋は、織田作之助が「大阪で一番小さい橋」と表現した橋である。今も「1768年(明和5)に天満9丁目の長浜屋五兵衛が奉納した」という由来の石橋がかかっていて、橋の両側は水が枯れたままの池になっている。

 すぐ北側に、上町台地の伏流水が湧き出る「梅乃井」(梅の井)跡があるところから、この池も伏流水が地上に顔を出した地点だったと推定される。池から、道頓堀川の起点となる東横堀川との交錯点までは、直線で400mもないくらいだろうか。すぐそこなのだ。

 「梅の辻のあたり、上古は小川ありて、今の梅乃橋の流れ、そのころの川筋にて、川下は道頓堀なり」(摂陽奇観)とあるとおりだ。

 

 「この川を広げて東西の横堀川とつなぐ運河を作る」。道頓は、ひらめきを即座に行動に移した。

 豊臣家の許可を得る一方、安井治兵衛、その弟の九兵衛道卜、平野藤治ら縁者に呼びかけて資金も集め、久宝寺の農民や日用取りらを駆りだして工事を始めた。記録によると、梅の川を拡張して掘り、既に完成していた東横堀川、西横堀川と結んだうえ、木津川につなげていく工事。道頓は新川奉行に任命された。

 工事半ばの翌年、安井治兵衛が病死。年末には大坂冬の陣で豊臣、徳川が鋭く対立。さらに翌15年(元和元)4月には大坂夏の陣が起きた。豊臣方として参戦した道頓も大坂城陥落(5月6日)の翌日、城内で討ち死にした。淀君と豊臣秀頼親子が城を枕に自決してすぐのことである

 しかし、徳川方についていた道卜、平野藤治は夏の陣後に大坂城主となった松平忠明に願い出て開削の残工事を継続し、11月、新しい堀川がついに完成した。

 堀川は当初、新堀、南堀川、新川などと呼ばれた。その後、松平忠明が道頓の死を悼む一方、私財を投じてことに当たった功績に鑑み、この川を「道頓堀川」と命名したのだった。

 

 大坂の5番目の堀川、道頓堀川の誕生である。

 

 この後の周辺開発は安井道朴が中心となって進めた。

 堀の完成と同時に、北岸に4町(西から久左衛門町、御前町、宗右衛門町、大和町)、南岸(現在の道頓堀通)に4町(西から湊町、九郎右衛門町、吉左衛門町、立慶町)の「道頓堀川八丁」が成立。町の発展の礎が作られた。現在も、宗右衛門町と湊町の二つの町名が残っている。

 ほぼ同時期、川の北岸と南岸をつないで今宮戎神社の参道とする戎橋が、周辺の人たちの手で完成した。延宝年間(1600年代後半)の古地図には「操り橋」の名が残っている。このころ、橋の南詰で井上播磨や、清水利兵衛らが「操り浄瑠璃」を興行。後に同じ場所に「西の芝居(竹本座)」も創設され、こんな呼び名が一時、定着したようだ。が、それほど長くは続かず、浄瑠璃の衰退とともに、元の「戎橋」に戻った。

 道頓堀川の完成で、市域の北端を東西に流れる土佐堀川と、南北を貫く東横堀川、西横堀川とで、大阪の市街地を四角に囲む舟運の交通網が完成。その後の物流の隆盛につながっていく。しかし、ミナミのはずれに位置した道頓堀が芝居町として飛躍していくのにはもう少し時間が必要だった。

 

 それにしても、大坂の堀川開削のスピードには目を見張るものがあった。道頓堀川に続いて1617年(元和3)の京町堀川、江戸堀川、24年(寛永元)に海部堀川、その翌年に長堀川、26年(同3)に立売堀川、30年(同7)に薩摩堀川と、計12本の堀川が完成。その後も1730年代までに逆川、三軒屋川、堀江川、難波新川、境川運河が完成し、16本の堀が縦横に走った。

 大坂が水の都、八百八橋の町と呼ばれる原型が、このころにできあがったのだった。しかし、その大半が、今はない。

 


<筆者の独り言>

 道頓堀の起源を探るため、高津宮には何度も足を運びました。主祭神は、浪速の守護神と仰がれ、大阪市歌にも歌われた仁徳天皇です。宮の西北端にある高台之頌碑(たかきやのしょうひ)の冒頭に「高き屋にのぼりて見れば煙たつ民のかまどはにぎわいにけり」の歌が刻まれ、高津宮が大阪と切っても切れないゆかりの宮であることがわかります。

しかし、同じ西面、つまり上町台地から道頓堀に向いて「西坂」(縁切り坂)と相合坂(あいおいざか=縁結びの坂)が左右に並んであるのにはびっくりしました。縁を結んだり、切ったり。一体、誰が言い出したのか、知りたいものです。

不思議だったのは、宮の表門といえる大鳥居の前をはしる東西の通り、西面の二つの坂が並ぶ南北の通りのどちらにも、名前がついていないことでした。

 手始めに大鳥居の内側に並ぶ民家の方に聞いたのですが、「知りまへん」「名前など、ないんと違いますか」。この二つの通りが交差する周辺でも、複数の地元の方に聞きました。答えは一緒で「知りまへん」。

思い余って、宮の社務所をのぞき同じ質問をしたのですが、宮司夫人と思われる方が「言われてみたら、名を呼んだことがおまへんわ」ですって。こんなことってあるんですねえ。

 

 

 追及はそこまでで止めたので、本当はどうなのか・・・。ご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ、教えてください。 

第4章 芝居の起こり、道頓堀の起こり、今井の起こり2

道頓堀絵図
道頓堀絵図

 平成の大遷宮を終えたばかりの出雲大社(島根県)から南西に伸び、国引き伝説で知られる稲佐の浜へ続く街道は、地元で「阿国の道」と呼ばれている。歌舞伎の始祖とされる出雲の阿国が晩年、ふるさとに戻り、読経と連歌にいそしむ日々を送ったとされる地だ。終焉の住まいとなった連歌庵、その向かいに阿国の墓、そのすぐ西横に「阿国の手鏡」「阿国の数珠」などを所蔵するゆかりの寺、安養寺がある。

 連歌庵の西は、阿国の功績をたたえて建てられた「於国塔」が鎮座する奉納山公園だ。標高100m。塔を取り囲んで並ぶ石柱に、道頓堀が終生の舞台だった初代中村鴈次郎から6代尾上菊五郎、11代片岡仁左衛門ら歌舞伎界の重鎮に加え、水谷八重子ら女優の名前も連なっている。400年前に京で人気を博し、芝居町・道頓堀繁栄の源流ともなった歌舞伎の始祖・阿国の足音が聞こえてきそうなところである。

 

 徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いたのが1603年(慶長8)2月。その2か月後、阿国は京都・四条河原で「歌舞伎(かぶき)踊り」を演じ、評判となった。初演の場所は北野神社境内ともされ、「ややこ踊り」の変形である「念仏踊り」の一種の、多少エロチックな踊りだったと伝えられる。

これが現在の歌舞伎の原型とされ、その後の大きな流れと隆盛を、芝居町・道頓堀が担った。

 

 安井道卜らの努力で「道頓堀川八丁」が開かれたものの、かの地への人の集まりはもう一つだった。かといって、人の気配がまったくなかったわけでもない。元和に入ったころ、道頓堀が完成して間もないころだが、大坂最古の「操り座」とされる「伊藤出羽掾座」が、道頓堀・立慶町、つまり、相合橋南西詰めの浜側(川べり)に開場。当時流行していた金平浄瑠璃などをからくりと手妻人形で見せ、客を呼んだという。この小屋以外にも見世物の小屋はいくつかあったらしい。

 しかし、これに満足できない道朴はさらに一計を案じた。周辺町の振興策として遊所(悪所ともいう)や芝居町の誘致を願い出て、ほどなく許可を得たのだ。1626年(寛永3)のことである。

 道頓堀側の北岸と、道頓堀通りのさらに南側を遊所とし、道頓堀通りそのものには、南船場・勘四郎町(現在の安堂寺橋通)に形成されつつあった芝居町をそっくり誘致したのだ。水運と悪所と芝居の町へ。道頓堀が今への繁栄を、この時につかんだのは間違いない。

 当時、一帯は葦が生えた寂しい所。道朴の大号令で、大がかりな小屋がすぐさま立ち上がったわけではないが、時間が過ぎるとともに、有料入場者を仕分ける板囲いを周囲に立て、屋根は舞台の上だけにあって雨露をしのぐ程度の仮小屋がポツンポツンと姿を見せ始めた。床几を並べてその上に板を敷いた舞台、土間にむしろを敷いた客席が並ぶ粗末な芝居小屋が、道頓堀通りの浜側に、道頓堀川に背を向ける格好で建ちだしたのだ。

 そんな小屋を最初に使ったのが、京都から下った段助(段介)という男だったといわれる。舞台に遊女を立たせ、それを阿国歌舞伎と称して客を呼んだのだった。これは後に遊女歌舞伎といわれるようになり、道頓堀から江戸の町にも輸出され、もてはやされた。この時期、公許の廓が各地に誕生。廓内の芸としても人気を呼び、江戸で大流行するきっかけになっていったようである。

当時、新しい土地(つまり新地)は廓に、が新興地繁栄策の常道だった。道卜の「道頓堀の悪所化」という狙いは当たった。それまで、にぎわいの南限が安堂寺橋通りまでだったのが、道頓堀まで伸びた。

 しかし、遊女歌舞伎は長くは続かなかった。「風紀上、問題あり」として、幕府が興行を禁止したのだ。29年(寛永6)のこと。わずか3年の命だった。

 すると代わって、前髪の若衆が舞台に登場する「若衆歌舞伎」が道頓堀で演じられ始めた。これを仕掛けたのも大坂太左衛門、松本名左衛門ら、段助の後に京から下った6人衆だ。後に本格的な野郎歌舞伎をリードする興行主たちである。彼らは大勢の若衆を舞台に立たせることで覇を競い、50人もの若衆を舞台に勢ぞろいさせる企画まで登場した。

 これも、道頓堀のにぎわいに拍車をかけた。通りの北と南に廓が並び、道頓堀の芝居小屋を中心としたにぎわいとで、一帯は大歓楽街に変わっていった。

 若衆歌舞伎が京、大坂、江戸で盛んに演じられる一方で、男色が問題とされ始めた。役者の取り合いが武士の刃傷沙汰を誘発したりしたせいである。52年(承応元)、遊女歌舞伎に続いて禁止となった。最もこれは「掛け声ばかり」という見方もあり、遊女歌舞伎も若衆歌舞伎も、淫靡(いんび)に続いたと考えられてもいる。

 

 ともあれ、先行した二つの歌舞伎の後に登場してきたのが「野郎歌舞伎」だった。

 道頓堀では若衆歌舞伎が禁止された52年(承応元)、名代(興行権)制度が導入された。

 こうした制度のスタートと同時に「中の芝居」(後の中座)、「角の芝居」(後の角座)、「大西の芝居」(後の浪花座)が開場した。いずれも、野郎歌舞伎や浄瑠璃を興行する芝居小屋だった。

 中の芝居は、京から下った興行主の一人、塩谷九郎右衛門の芝居が公許されたのに始まる。大西の芝居と角の芝居の真ん中あたりにあって、こう呼ばれた。

 角の芝居は、大坂太左衛門が興行の許可を得て建設した。小屋の西北に、宗右衛門町と道頓堀とをつなぐ橋があり、角の芝居ができてから、興行主の名をとって「太左衛門橋」と呼ばれるようになった。

 大西の芝居は、若衆歌舞伎を始めた松本名左衛門の小屋である。

 これらの小屋は通りの南側に並び、翌53年(承応2)3月、芝居名代5株が承認され、いずれも興行権免許の印として、小屋正面に櫓を掲げた。後の道頓堀五座(戎橋から東に浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座)の始まりでもある。また、これらを「大芝居」とも呼び、通りの北側にはかつて女郎歌舞伎の舞台だった「小芝居」や、見世物小屋が並んだ。

 

画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター
画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター

 1634年(寛永11)閏7月、3代将軍・徳川家光が上洛。これをきっかけに大坂、堺、奈良の地子銀(税金)を免除したことで大坂の町が活気付き、天下の台所としての基礎を固めていく。この年の大坂の人口は404、929人と記録され、初めて40万人を突破した。周辺からの流入人口が増えたことによるのだが、同時にそれは、それだけの人口を抱える都市基盤が整ったことの証明でもあったし、町人に芝居を観るゆとりを与える天下の台所・大坂の誕生ともなっていく。戦続きだった時代からゆとりと安定の時代へ、大坂が移行していく時期でもあった。

 上町8丁目、西光院の隣にあった法善寺が道頓堀通りの南に移転してきて、千日念仏を始めたのが37年(寛永14)。以来、千日寺と呼ばれることが多く、そこから「千日前」の地名も生まれた。その南に位置した竹林寺が刑場を備え、火葬場を持つにいたったのは、さらに時代が下ってからのことだが、そんなたたずまいは、これ以降、明治初期まで続いた。

 


 <筆者の独り言>

 10月1日付のいくつかの全国紙に、道頓堀・戎橋のたもとにあるグリコ広告塔のランナーが2ページ見開きでドーンと掲載され、読者のどぎもを抜きました。

 右端に大きな文字で「ゴールではなく、スタートだ」とあり、左端下部にその5分の一程度の活字で「2015年10月、江崎グリコとグリコ乳業は一つに」とあります。グリコ系の企業が合併し、この日に新たなスタートを切るタイミングの告知広告とわかるのですが、それにしてもびっくりです。

 あの場所にあのランナーが登場したのは1935年(昭和10)。太平洋戦争末期の43年、鉄材供出の名のもと、通天閣などとともに撤去されたものの、55年(昭和30)に2代目が復活し、現在のランナーは昨秋に完成した6代目です。

それにしても同じ場所に同じランナーが居続けること80年。こんな広告塔なんてほかにありません。というわけで、あのランナーを見れば「あっ、道頓堀」と思ってしまいます。これはまさしく条件反射。グリコの新聞広告の主役に抜擢されたのもよく分かります。

 この日の午前中は雨模様。でも、戎橋からランナーをバックに記念写真を撮る外国人観光客が引きも切らず。広告塔が、国際的に知られた名所の一つになったんですねえ。


10月 栗むしあん
10月 栗むしあん

 さて、10月の季節そば点心は「栗むしあん(そば)」です。

 満月を思わせる丸いふたつき椀を開けると、中央に満月(カモのミンチを味噌炊きにしたあん入りの栗麩まんじゅう)、周囲にむらくも(エビのテンプラ)と満天の星(ギンナンの輪切りとクリ)を配したあんかけそばです。あんの中に、これらがたくさん泳いでいます。本格的な秋、中秋の名月をほうふつとさせ、熱々を口に入れると思わず顔がほころびました。 

 

 点心も秋そのもの。マツタケと菊菜のおひたし、ギンナンに長芋のけしまぶし、あゆ、里芋をマツタケ風に型どって炊いた煮しめなどが並びます。

 

第4章 芝居の起こり、道頓堀の起こり、今井の起こり3

 上方文化が爛熟期を迎える元禄時代を少しさかのぼった時期、道頓堀はにぎわいの最盛期を迎えた。道頓堀通りの南側に、官許を表す櫓を掲げた「大芝居」が並び始めて10年。にぎわいが増し、歌舞伎の6座、浄瑠璃の5座、仏教の教えを独特の節回しで説く節談説教の小屋など、からくり芝居の小屋も含めると10数座がひしめいて覇を競った。安井道卜が目指した芝居の町・道頓堀は、堀川開削からわずか50年弱で実現したのだった。

浪花座 再現CG(画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター)
浪花座 再現CG(画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター)
角座 再現CG(画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター)
角座 再現CG(画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター)
弁天座 再現CG(画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター)
弁天座 再現CG(画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター)
中座 再現CG(画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター)
中座 再現CG(画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター)
朝日座 再現CG(画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター)
朝日座 再現CG(画像提供:関西大学なにわ大阪研究センター)

 そんな時期に登場したのが「からくり芝居」を考案した竹田出雲(後に改名して近江)だ。1662年(寛文2)、太左衛門橋と相合橋の間の浜側(道頓堀通りの北側)に芝居小屋を創建。お得意の「からくり芝居」を初めて興行し、これが「竹田の芝居」として大変な評判を呼び、この地のにぎわいに拍車がかかったのである。

 竹田出雲は阿波(徳島)の生まれ。腕のいい時計つくりの職人だったという。江戸に住んでいたころ、浅草観音境内で子供たちが砂遊びをしていたのを見、それをヒントに砂時計を作る。さらには、砂を動力とするさまざまな「からくり」を工夫・考案したとされる。

 58年(万治元)、京に上り、朝廷に「からくり人形」を献上して評判を得、その4年後、官許を得て道頓堀での「からくり仕掛けの芝居」興行につなげた。その人気は江戸にも及び、数年遅れで公演されたほど。長崎から江戸に向かうオランダ商館の人たちも「竹田のからくりを見ないと、大坂にきたかいがない」といい、これを楽しんだという。その中にはシーボルトも混じっていた(摂津名所図会)。そして、「おさかどとんぼり(大阪・道頓堀)竹田の芝居 ねい(値)が安うて面白い」と、唄にまでうたわれた。

 これが浄瑠璃と結びつき、近松門左衛門と竹本義太夫のコンビで黄金時代を築く人形浄瑠璃(文楽)へと発展していくのだ。

 

 からくり芝居の興行が始まった寛文年間、伝法村の船問屋の手で「樽廻船」が始められた。伊丹の酒屋の援助もあってスタートしたもので、下り酒を主たる積荷としたが、その後、酢、醤油、塗り物など生活の必需品を江戸に運ぶ定期船となっていく。19年(元和5)に堺の商人の手でスタートした日常物資輸送の「菱垣廻船」と合わせ、大坂―江戸の定期航路が確立される背景に、大坂の物流拠点としての隆盛があり、それが、芝居町・道頓堀のにぎわいを後押ししたといっていい。

 

 78年(延宝6)2月、上方歌舞伎の創始者のひとりとされる初代坂田藤十郎が和事の芸を確立し、道頓堀がその拠点となった。野郎歌舞伎が始まって20数年。歌舞伎の隆盛を決定付け、人の目は道頓堀に向いた。

 一方でこの時期、井原西鶴が世に出た。82年(元和2)に「好色一代男」を刊行。86年(貞享3)には「好色五人女」「好色一代女」「本朝二十不孝」を相次いで世に出し、88年(元禄元)に「日本永代蔵」、92年(同5)に「世間胸算用」を刊行し、いずれも当時のベストセラーとなった。大坂の出版文化のピークである。船場を中心とした商人の財力と知力が、それを支えた。

 道頓堀も、にぎわいを益々大きくしていった。80年代に入って、宗右衛門町と道頓堀を結ぶ相合橋が架けられた。色町と芝居町の融合が進む象徴でもあり、これで、道頓堀とその北側を結ぶ橋が、西から東へ、戎橋、太左衛門橋、相合橋、日本橋という形で勢ぞろいした。

 84年(貞享元)には、竹本義太夫が戎橋東南詰めに「竹本座」を開場。2年後に近松門左衛門の「出世景清」を初演、大当たりをとり、浄瑠璃人気の先駆けとなった。

 

 そして、元禄。

 大坂は元禄文化の発信基地となった。歌舞伎、操り芝居(人形浄瑠璃)、井原西鶴を看板とする出版、それらすべての分野で江戸を圧倒した。

 

 道頓堀に「芝居茶屋」が誕生したのがこの時期だった。99年(元禄12)11月のことである。

 にわか雨などの時に芝居客が難渋する。これを何とかすべく浜側の空いているスペースを板で囲い、屋根をしつらえて床几を置いた簡単な小屋が芝居茶屋の出発点だ。最初はここで茶をふるまうだけだった。こんな簡単なサービスが意外と受け、茶屋はたちまち48軒に増えた。

 48という数字は、いろは47文字におしまいの「ん」を加えた数字だったから、当初は「いろは茶屋」と呼ばれた。増えると茶屋同士のサービス競争も激しくなり、それぞれの店が芝居小屋と連携して芝居の木戸札を売るようになる。そして、立ち寄る見物客を芝居に誘うお茶子を抱え始めた。芝居にやってきた客の休憩の場、着替えの場などとして利用されるようになり、「芝居茶屋」と呼ばれるようになっていく。

 角座の専属だった初代並木正三(しょうざ)は、芝居茶屋「泉屋」の生まれだ。父を喜ばすため、2階に庭を作り、釣瓶を手繰ると酒肴が下から上がってくる仕掛けを作ったといわれている。そして、世界初といわれる舞台装置までを考案、実際に動かした。

 くだって寛政年間には「芝居茶屋の座敷は外より見通し(外からよく見えるように)にいたすべし」との触れが出たといわれ、その構造は昭和になってからも変わらず、「外から丸見え」といったものだった。(「南水漫遊」による)

 そのうち芝居客は、前夜から舟で道頓堀に繰り出し、まずは茶屋の船着場からお茶子の案内で茶屋入りして仮眠。起きると顔を洗い、着替えて早朝の芝居の開始を待つ。観劇の途中で茶屋に戻って食事をしたり、時には自らの席に酒や食事を運ばせたりもして、芝居を楽しむ。いつしか、芝居茶屋は観劇に欠かせない施設になっていった。

 芝居茶屋は天保以降、60軒余に増え、明治7、8年ごろには、63軒もが浜側だけでなく、南側にも軒を連ねた。

 

 またこの時期、人形浄瑠璃が黄金時代を迎えていた。

 芝居茶屋が誕生する前年、語りで人気を博していた竹本義太夫が操り芝居(人形浄瑠璃)を始めて客の評判を呼ぶ。1703年(元禄16)、竹本義太夫の弟子、豊竹若太夫が人形浄瑠璃の芝居小屋として「豊竹座」を旗揚げし、義太夫、若太夫の対照的な芸風が客を引き付け、「竹豊時代」と呼ばれる浄瑠璃全盛期を作り上げた。

 近松の「曽根崎心中」が竹本座で初演されたのもこの年である。

 さらに05年(宝永2)、竹本義太夫が「竹本座」の経営権を、当時、道頓堀の実力者にのし上がっていた竹田出雲に譲渡し、自らは語りに専念するようになった。竹田の竹本座は近松門左衛門を座付作者として迎えた。こうしてできた竹田、義太夫、近松トリオは人形浄瑠璃の傑作を次々と世に送り出し、文字通り、人形浄瑠璃の黄金期を作り出していったのだった。

 

 大坂といっても、にぎわいの中心は道頓堀を中心とするミナミに集中していた。大坂三郷のうち、船場を中心とした北組の商人たちが「天下の台所」を担って富をたくわえ、芝居町・道頓堀と、その周辺の色町で遊んだ。北船場のにぎわいが南組に移り、そして「天満組」のにぎわいへと伸びていく。

 元禄期はまさしくその分岐点に位置していて、曽根崎に芝居小屋、茶屋、風呂屋の設置が許可されたのは1708年(宝永5)にずれ込んだ。

 そして、その間も人形浄瑠璃の全盛期は続き、10年(同7)に「角丸の芝居」が官許を得て開場。新町廓の傾城、夕霧太夫35回忌に当たる12年(正徳2)には近松が「夕霧阿波の鳴門」を書いて竹本座で上演、15年(同5)には近松の「国姓爺合戦」が初演されるなど、この時期の人気は歌舞伎をはるかにしのいだ。

 

 24年(享保9)3月、大火が大坂を襲った。妙知焼である。市街地の大部分、408町が焼け、12205戸が灰となった。道頓堀では竹本座、豊竹座が燃えた。しかし、これをきっかけにそれまでの粗末な小屋が、現在のものに近い劇場に近い形で復興、整備されていく。官許の芝居小屋は表構えの正面に櫓を掲げ、3方に幕を張り、左右に梵天を立てたが、入り口は見物人がねずみのように肩をすぼめて潜り込むことから「鼠木戸」と呼ばれた。通り札(入場料)は往来の床几の上で売られた。

 

 しかし、この大火は道頓堀のにぎわいを奪った。

覇を競った竹本、豊竹両座がなくなったのと、享保の改革が進めた質素倹約の風潮が人を芝居から遠ざけたのである。そして、その年の11月、人形浄瑠璃を支えてきた近松門左衛門が72歳で逝く。34年(享保19)、吉田文三郎が人形の3人遣いを創案。52年(宝暦2)、「角座」の専属となった初代並木正三が世界で初めてのせり上げや回り舞台を考案、耳目を集めたものの、客足を戻す決定打とはならなかった。

 65年(明和2)には豊竹座を興した豊竹若太夫が死去して閉座に追い込まれた。その後、「若太夫の芝居」と名を変えて歌舞伎小屋に転じ、人形浄瑠璃の人気は衰え始めた。

 59年(宝暦9)、大坂三郷の人口が41万7千余人と、江戸期のピークを迎えたことだけが救いだった。

 とどめは71年(明和8)の竹本座の閉座だった。歌舞伎小屋に変わり、天保期に「大西の芝居」、さらに「筑後の芝居」と改名、明治期に「戎座」「浪花座」と名を変えて生き続けたが、人形浄瑠璃の原点は道頓堀から消え、植村文楽軒の「文楽座」に移っていく。

 


<筆者の独り言>

 それぞれの町には、けったい、奇妙な商売というのがあるものですが、道頓堀も、その例に漏れません。雨が降った日に通りで番傘を売る。映画館の前で、その映画館の割引券を売る。どんなからくりで利益を出すのか知りませんが、映画全盛の時代には複数のおばちゃんたちがこんな商売でその日をしのいでいたようです。

 道頓堀で生まれ育ち、道頓堀を生涯書き続けた三田純市さんによれば、「初日屋」という商売もあったそうです。「ぞめき屋」ともいうそうですが、幕が開いて役者が花道へ、という瞬間に実にいい間(ま)で「成駒屋っ!」とやる掛け声。これを「ぞめく」というそうで、これを商売にして、役者から祝儀とか小遣いという形で金銭をもらったようです。こうした人たちが「初日会」という組織を作ったので、後に「初日屋」と呼ばれたのだとか。

 また自ら「私の家は、なんか妙な商売でして」と話すのは、文楽の人形遣い、吉田文雀さん。文雀さんがサロン・ド・ブンラクザ(*注)で話したところによると、その商売は「布団貸屋」です。三代くらい前に木津から出てきて始めた商売で、劇場の裏通りに店を構え、芝居茶屋に上がったお客が仮眠する布団を貸すのだそうです。三井とか鴻池とか、お金持ちの客からは専用の布団を預かっていたといい、予約の日が決まると、昼間のうちに丁稚が大八車に積んで芝居茶屋に運び込んだそうです。それでいくら儲かったか。文雀さんは語っていませんが、この商売をやっている時、お店には「布団蔵が三つもあった」といいます。今でいう布団専門のレンタル屋さんだったのでしょうが、当時、かなりの珍商売だったのには間違いありません。

 

(*注)「サロン・ド・ブンラクザ」=人形浄瑠璃のさらなる普及を目指し、2002年から活動を始めたNPO法人人形浄瑠璃文楽座(鳥越文蔵理事長)が、法人会員と文楽の技芸員がお茶を飲みながら話したり、論じたりする場として設けたサロン。2012年からスタートした。吉田文雀さんの話は2009年9月のサロンで行われ、同法人発行の「文楽通信・設立10周年記念号」に掲載された。

第4章 芝居の起こり、道頓堀の起こり、今井の起こり4

 土砂降りだった。

2015年(平成27)正月のその日、前夜からの切れ目ない冷雨が奈良・東大寺2月堂に向かう石畳をたたいた。普段は干上がっている参道の側溝がほとばしる急流に変わり、上院(じょういん)につながる地道のあちこちに幾筋もの小さな流れを作った。

 堂の南にある3月堂のさらに南の駐車場で車を降りた「今井」の7代目で現当主、今井徹と妻、悦子は、痛いくらいの雨をものともせず、堂右手の最後の石段を上り始めた。年に最低3回は欠かさない「2月堂参り」の、この年最初のおつとめである。歴代の当主が代を重ねて続けてきた「今井」の「初代・佐兵衛への祈り」だ。 

 上り詰めた堂の南面から左に回りこみ、さらに右へ回って正面に出る。前方の吹き放ちの舞台の西北西寄りに普段は見える金堂(大仏殿)が、この日は雨にけむって消えていた。

 西正面で靴を脱いだ二人は、ろうそく2本を買って供えた後、目前に鎮座するとされる二つの十一面観音(大観音、子観音)に向き合って座し、手を合わせながら静かに般若心経を唱えた。こんな日だからか、後に続く参拝者はまったくなかった。

 わずか数分。立ち上がった二人は靴をつけ、吹き放ちの舞台を北進し、角を右に折れて北面中央の局(つぼね)で、今度は立ったままで般若心経を唱えた。さらに東面中央部分の局でも同じようにふるまい、南面を通ってそのまま石段を降りた。

 

 10分程度で恒例の「2月堂参り」は済んだ。このわずかな時間に、来し方への万感の思いが込められている。

 

 現在の「今井」につながる初代は佐兵衛という。奈良は今井町の庄屋の出だ。生来のわんぱく。長じては、ばくち好きで親に愛想をつかされ、勘当同然で放り出された。江戸・文化年間(1804~1817)末期のことである。

在所をいつ出たか、いくつの時のことか、の記録はない。

 気が付けば道頓堀にいた、という方が正しいかもしれない。過去帳をたどり、四天王寺の共同墓地に葬られたことと合わせ、道頓堀で所帯を持ち、「たけ」という名の一人娘がいたことだけは、分かる。屑拾いを生業としながらの生活だったとされ、その暮らしぶり、いつ、どんな女性と結婚したかなどは分かっていない。

 佐兵衛の大坂・道頓堀での生活は7年ぐらいとされ、1822年(文政5)9月25日に亡くなった。

この年は西国一帯でコレラが大流行した年でもある。あるいはその被害者だったのかもしれない。しかし、今も続く「今井」の道頓堀での第一歩は間違いなくこの時に記された。


 幕末に近づくにつれ、なにわの町にもきな臭い出来事が増え始めた。

 佐兵衛が逝った翌年、オランダ商館のドイツ人医師、シーボルトが長崎・出島に着任。3年後の1826年(文政9)3月、オランダ商館長の将軍謁見(えっけん)に随行して江戸に下る途中、道頓堀・角座で芝居を見物した。そんなことがあった一方、その翌年には「西の芝居」の楽屋から火が出、18人が焼死する惨事になった。すぐ東の「中座」も類焼し、後に「道頓堀焼」といわれた。

 31年(天保2)、大坂町奉行、新見正路が安治川を浚渫(しゅんせつ)、その土砂で天保山を築いたりしたが、その2年後には天保大飢饉が発生。翌年にかけて、大坂では打ちこわしが頻発した。37年(同8)2月、大坂町奉行所の与力、大塩平八郎が「檄」を掲げて起こり、船場を中心とする一帯は猛火に包まれた。1か月後、平八郎、格之助親子の爆死で終結したが、その後も打ちこわしがたびたび起きた。こんな動きを、維新騒動の前兆とみる人もいた。


 大塩の乱の一年後、「中座」向かいの道頓堀浜側に芝居茶屋「稲竹」が暖簾を揚げた。経営するのは、今井の初代、佐兵衛が遺した娘、たけ。今井の2代目である。20歳を過ぎたころ、船場の商人、稲野屋徳兵衛とわりない仲となった。そんなたけが、徳兵衛の支援も得て、当時の最先端を行く芝居茶屋経営に乗り出したのだった。

 自らの名と支援者の苗字から一字ずつをとって名付けられた「稲竹」は、折からの芝居人気に乗って順調に船出。まもなく、鴻池家という得意先を持つにいたって、60軒余の芝居茶屋の中でも屈指の店に成長していった。その名は、当時の絵図にも刻まれた。


 42年(天保13)5月9日、たけに待望の男児が生まれた。その後の我が家の隆盛を見ることなく逝った不遇の父の名「佐兵衛」を、たけはそのまま我が子に付けた。今井の3代目の誕生だった。

 3代目は、激動の幕末を生きた。54年(安政元)9月、ロシアのプチャーチンが率いる帆船「ディアナ号」が天保山沖に姿を見せ、開国交渉を求めた。大坂港での黒船騒ぎである。直後の11月、安政南海地震が高さ1丈(約3㍍)もの津波を引き起こし、道頓堀周辺も水没。地震と津波の死者は数百人とも数千人ともいわれた。

 62年(文久2)8月22日、母、たけが逝った。3代目が成人した年のことだった。否応なく「稲竹」を継いだ。が、64年(元治元)7月の禁門の変で長州が敗れ、徳川幕府は長州征伐の軍を大坂から発進させようとした(第一次長征)。10万人を超す各藩の兵が大坂の町に長期滞留したため、コメをはじめとして深刻な物資不足に陥り、物価が急騰した。翌年の第二次長征で事態はより深刻化。66年(慶応2)には市中を始め、九条、難波、福島で打ちこわしが相次いだ。

 その年の12月、大坂城で没した家茂に代わって徳川慶喜が15代将軍に就いたものの、翌67年(慶応3)9月には大政を奉還。12月の王政復古の大号令へと、時代は流れた。

 そして、68年(慶応4)正月、会津藩兵を中心とする幕軍と薩長中心の官軍とが京・鳥羽伏見で戦端を開いた。戊辰戦争の勃発である。幕軍は敗走を重ね、同月9日には長州藩兵が大坂城を占領。22日には大坂鎮台(大坂府の前身)を西本願寺(津村別院)に設置した。鎮台はすぐに大坂裁判所と改称、さらに大坂府とされ、府知事が就任し、大坂は一変した。

 鳥羽伏見の戦いの余波が道頓堀をも襲い、芝居小屋は軒並み興行中止に追い込まれた。こうなれば、芝居茶屋の客も当然激減する。3代目が、荒れ狂う日々が過ぎていくのを呆然として待つ毎日が続いた。しかし、へこたれなかった。「芝居の灯はほどなく戻る」。どん底からの飛躍を期して、祖父の名を継いだ佐兵衛は激動期を耐えに耐えた。そして、二月堂参りだけは欠かさなかった。

 この時期、佐兵衛は祖父のふるさとにちなんで「今井」の姓を名乗り始めた。


 郷里の奈良を逃れるように捨て、道頓堀に住み着いた初代佐兵衛は住まい近くの井戸端である時、半分にちぎれた2月堂のお札を拾った。その後、屑拾いをしていて屑籠の中に2月堂のお札の半分があるのを見つけた。拾い、持ち帰ると、前に拾ったお札とぴったり合った。以来、佐兵衛の運が開けたという言い伝えが、今井家にある。初代がつかんだ運を代々に・・・・そんな思いが当主の「2月堂参り」に結びついた。

 3代目、4代目と5代目・寛三までは毎月、徹の父で6代目・清三と徹は年に3回のお参りを欠かさない。


 2月堂参りは、いつ、どんな時でも今井の起こりを見つめる当主の大事な仕事なのである。


<筆者の独り言>

 この7日から道頓堀の大阪松竹座で始まる「松竹新喜劇」の錦秋公演。その昼の部に、道頓堀開削400年にちなんだ「はるかなり道頓堀」が登場します。昭和の道頓堀の芝居茶屋を舞台にした長編喜劇で、劇団代表の渋谷天外や、藤山寛美の孫、藤山扇治郎らが演じるそうです。開削400年という今年ならではの演目に加え、筆者自身もこの町に浸りきっているだけに、どんな描き方になるのか興味津々。初日が待ち遠しい、といったところです。 

 実は演題と同じ「遥(はる)かなり道頓堀」という小説を、初夏のころに繰り返し読んでいたせいでもあります。「今井」の2~4代目が経営していた芝居茶屋「稲竹」の営業権を譲り受け、戦後まで「稲照」を経営した野村照さんを祖母に持つ作家、三田純市さんがお書きになったもので、大正期から昭和の道頓堀と、芝居茶屋の実相を正確に写し取った貴重な資料です。この連載でも、今井が芝居茶屋から西洋楽器店に替わる際の4代目と5代目のやり取りなど、三田さんの作品をかなり引用させてもらっています。

 今度の舞台と小説では、「はるか」がひらがなか漢字かの差だけなので、舞台でも三田さんが描くお茶子さんの姿などが登場するのかもしれません。

 それと、錦秋公演の新聞広告が10月末の各紙に載ったのですが、公演全体のPRコピーが「チケットにうどんはついていませんが心から温まります」とあったのです。松竹新喜劇とうどん、となれば「今井のうどん」のことですから、思わずニヤリとしてしまいました。

 この劇団が中座で公演を続けていたころの中心役者、藤山寛美さんも娘の直美さんも大のうどん好き。出前をしない今井に弟子を走らせ、楽屋に持ってこさせたし、直美さんも舞台のアドリブで今井のうどんの話を口にするなどで知られています。新聞広告のコピーにも、このあたりの影響もがあるのかなと思いながらのニヤリでした。 

11月 小田巻きむし
11月 小田巻きむし

 さて、11月の季節そばは「小田巻むし」です。月替わりの季節そばの中で何故か、この月だけは「うどん」なのです。

 小田巻むしはご存知のように「うどんが入った茶碗むし」のこと。サワラ、トリ、穴子、ギンナン、シイタケ入りの茶碗むしの中にうどん(半玉分)が絡みつくように入っているのです。木々が色づき始め、晩秋の寒さが際立つころ、それをふうふう言いながら口にすると、額に汗がうっすらと。

 昭和30年(1955)ごろまでは、今の時期になると、大阪のうどん屋さんの店先で、小田巻むしが入った大きなセイロが湯気をシュンシュンとたてていたのだそうです。が、昭和43年から関西に住み始めた筆者にとってはお目にかかることのなかった光景です。

 

また、付いてくる点心が凝ってましてね。タマゴの黄身の味噌漬けを柿に見立てたもの、そして、いがぐり真丈。魚のすり身にそうめんをとげ状にさして揚げたいがにクリがのっていて、本物のいがぐりとみまごうばかり。また、昆布を1ミリ幅に刻んで編んだかごにはギンナンが。イモをイチョウやモミジの葉に型どって揚げたものを散らす季節への心配りに、感心しました。味はもちろん、最高でした。