今井と道頓堀の200年

芝居とジャズと、宵待柳


第2章 大転換1

神峯山寺 本堂(写真提供:神峯山寺)
神峯山寺 本堂(写真提供:神峯山寺)

  天台宗の名刹、根本山神峯山(かぶさん)寺の塔頭、寂定(じゃくじょう)院に、「今井楽器店」当主の今井寛三ら一家7人が身一つで駆け込んだのは、1945年(昭和20)3月13、4日の「大阪大空襲」第一弾が去った直後だった。

 14日早朝、道頓堀の中座東隣に位置した楽器店が跡形もなく焼け落ちたのを確認してから知人の世話で高津高校そばの借家に移り、そこで1週間を過ごした後でのこと。寛三が、家財を移す小屋を境内に建てさせてもらっていた寂定院の住職、近藤宗道と連絡を取り、一家で住ませてもらう約束を取り付けての、予想だにしなかった疎開である。

 宗道は一家のために、御内仏(本堂兼住居)8畳間とその二階8畳間を空けてくれた。夫婦と娘3人の修三一家が隣室に住まう生活が、以来、1年余も続いた。

 

 高槻への疎開は、寛三、妻マチ子に宏子、清三、徳三の親子、母コマと女中一人が一緒だった。空襲の中を一緒に逃げまどった一人の女中は、1週間の借家住まいの間にさる医師宅に勤め替えしていた。それにしても、ショックと疲労で青ざめた7人が向かった寂定院のなんと遠かったことか。

神峯山寺 仁王門(写真提供:神峯山寺)
神峯山寺 仁王門(写真提供:神峯山寺)

 現在のJR高槻駅から緩やかなのぼりが続く亀岡街道(府道枚方・亀岡線)をバスで25分ほど行くと、神峯山寺へ通ずる山道の起点に出る。神峯山口である。ここを右折し、険しくなった山道を30分ほど歩くと、ようやく神峯山寺だ。今でも民家一つない山中の寺。幅5メートルほどの山道が右に大きくうねり、さらにS字のカーブを曲がると、寺の入口である仁王門に出る。落ちてきそうな山並みが左右に迫る。山の底にあたる西側を、桧尾川に注ぐ沢と呼ぶのがふさわしい無名の川が流れ、断面を切り取ればV字状の谷あいである。

 一帯は昼でも暗かった。茅葺きの寂定院はその川のほとりの、仁王門から10メートルほど入った参道の西に面して約50メートルの土塀を連ねていた。塀の切れ目が寂定院の北端。そこに、一家が3年前に建てさせてもらった3畳間ほどの家財小屋が見えていた。

寂定院(写真提供:神峯山寺)
寂定院(写真提供:神峯山寺)

 一家は汽車に乗り、高槻駅からは2里(8キロ)の道を歩いた。寺まで、何時間かかったろうか。朝に焼け跡の道頓堀を出、着いたら、陽は傾きかけていた。神峯山口からの激しい上りこう配に、一年坊主の徳三はあごをあげた。あしてまといのこぼんちゃんである。その道程は、小学校6年生の清三にも、とてつもなく遠く感じられた。入ったこともないお寺さん、落ちてくるような木々に囲まれた寺という新たな住まいは、怖いくらいだった。

 

 寺の一番奥まったあたり、3畳の家財小屋に隣り合う8畳間に落ち着き、マチ子がまず家財小屋に入った。それぞれの着替えを取り出してきた。寝具もそこにあり、手分けして一階と二階に運んだ。

 うっそうとした木立に夕闇が迫るのは早い。宗道夫妻の好意で入浴を済ませ、着替えてくつろぐと日が落ちかけてくる。この日ばかりは迎えた一家が用意してくれた夕食に舌づつみをうった。一階の8畳間に寛三、マチ子、徳三、2階8畳間にコマ、宏子、清三、女中と別れ、全員が早々にふとんにもぐりこんだ。

 翌朝は、全員が早起きだった。土塀の内側、宗道一家が使うへっついの前にあった井戸から汲んだ水で顔を洗い、へっついを借りてマチ子が朝食の準備を始めた。コマと女中がそれを手伝っている。いつまで続くかわからない疎開生活のスタートである。

 月が変わって、徳三は2年に進級した。亀岡街道を越え、それと並行して流れる芥川をも越えてやっとたどり着く清水国民学校原分校に徒歩で通った。宏子は夕陽丘高等女学校へ、バスと汽車を乗り継いで通う。とはいっても、授業があるわけではなく、女子挺身隊員として学校から大坂城近くの兵器工場に行き、勤労奉仕をする毎日だった。中学生になった清三は自転車で茨木中へ。

 寛三とマチ子は一家の食料確保に忙しい日々を送った。朝、炎のなかを逃げまどった大空襲の日も一緒だった乳母車に大きな風呂敷をのせて二人は家を出た。中身のマチ子の着物が、帰りにはそれなりの食料に化けていた。出かける時は寛三がいつも一緒で、背負い役を務めた。しかし、それでまかなえたのは週一で食べた芋ごはん。普段は重湯にも及ばない水に近いおかゆと、夏場に入って近所の農家で手に入れやすかったトマト、そして、じゃがいも。ひもじさをしのぐことはできても、全員のおなかを満たすには程遠かった。芋ごはんの日、清三、徳三は決まって下痢をした。日々の飢餓状態から逃れようと、必死になって詰め込むせいだった。器用な寛三が家財小屋の東に粘土でへっついを作り、気兼ねなく煮炊きができるようになったが、その材料に事欠く日々は依然続いた。

 ある日、徳三は分校からの帰り道、山道に沿って続くサツマイモ畑に足を踏み入れた。畝を掘ろうとした途端、所有者があらわれ、したたかに怒鳴られたことがある。盗むつもりなどまったくないのに、足が畑に向いたのだった。空腹が、真犯人だった。

 

 高槻での1年余は、食べることとの闘いだった。道頓堀に戻って始めた食いもん屋の原点は、このころの悲惨な体験に根差していたのかもしれなかった。

 

(写真提供:神峯山寺


<筆者の独り言>

 この夏、道頓堀から目が離せない―――。開削400年の今年は、梅雨明けのころから夏にかけ、様々な行事が道頓堀に集中します。

 中でも面白そうなのは、今井7代目の現当主、今井徹さんが会長を務める道頓堀商店会が8月の14日ごろに催す「道頓堀盆踊りインターナショナル」でしょう。道頓堀川の戎橋から相合橋までの約300メートルの範囲に、北岸で二つ、南岸で二つの踊りの輪を作り、総勢3000人を超える壮大な計画で、踊りに参加した人数のギネスの記録を塗り替えようと意気込んでいます。途中に戎橋を挟むので、踊りの輪を一つにできないのは残念ですが、細長―い踊りの輪が四つもできる盆踊りなんてすごく壮大で、ワクワクします。

 しかも、開削400年という記念のとしのインターナショナルな盆踊りということで、ドイツやハワイからの参加者もたくさんいらっしゃるとのこと。現代の道頓堀にふさわしい国際色豊かな夏のお祭りになりそうです。

 これ以外にも7月11、12日には「大阪ミナミ400年祭・とんぼりリバーウオーク」がありますし、様々な団体が多くのイベントをこの一帯に集中させるようで、この時期、道頓堀で踊らにゃ損損・・・・。 

うしおそば(5月)
うしおそば(5月)

 そして、今井オリジナル「季節そば点心」の5月のメニュー紹介です。

 今月は「うしおそば」。大きめのどんぶりにそばが泳ぎ、厚めに切ったタイが三切れ、炊きこんだシイタケにスライスしたウドが。いつものおそばと同じ出汁を使ったものなのにどことなく潮の香りがしてくる風情。

 ついてくる点心にも、青葉若葉の五月がいっぱいです。季節の花、ショウブの葉が敷かれアユ、茶巾すし、三角形をした小さなユリ根の頭頂部がアヤメの色に染まっていました。

第2章 大転換2


 大阪の中心部を襲った1945年(昭和20)3月13、4日の大空襲で、道頓堀のど真ん中に位置した「今井楽器店」が消失。疎開を余儀なくされた当主の今井寛三ら一家6人が3月末から住みついた、高槻市郊外の山中に立つ根本山神峯山(かぶさん)寺の塔頭、寂定院(近藤宗道住職)の近くにも、空襲の余波は襲った。

 疎開した当座は、人気のない寺ながら自然がいっぱい。清三、徳三兄弟はカブトムシ、クワガタ取りに熱中した。寺の西を流れる小川はサワガニの宝庫だ。雨の日ともなると、カニたちが山道に湧くようにあふれた。道頓堀にはない光景が随所にあって、二人は目を輝かせて遊んだ。寂定院の3姉妹は、引っ込み思案の人見知りだったが、徳三の同級生である次女の幸子だけはすぐに慣れて、遊びの輪に入ってきた。分校への通学も一緒だった。


 しかし、それもつかの間だった。戦局がますます悪化し、大空襲の範囲は広がる一方。大都市に集中していた無差別爆撃は、地方都市にも拡散していった。この時期の日本本土の防空能力はゼロに等しく、米軍機が日本上空に頻繁に飛来し、暴れまわった。

最初は、焼夷弾攻撃だけだったのが、この時期には、大型爆弾の投下が目立ち、非戦闘員への無差別攻撃を象徴する機銃掃射が都市周辺部の住宅地で始まった。

 米軍機は、芥川に沿って伸びる亀岡街道周辺にもひんぱんに飛来し始めた。

 3姉妹の長女、澄子は当時、小学校4年生。学校の帰り、バリバリバリとごう音を響かせた米軍の戦闘機が急降下してくるのに気付いた。ダダダダ、ダダ、ダダダダの音がして、田の土がパッパッパッと連続して跳ねていく。機銃掃射だ。「田んぼのあたりをウロウロしていたらあかんよ」との両親の注意を思い浮かべながら、澄子は地べたにはいつくばった。恐怖で唇がふるえた。

 2年生になったばかりの今井徳三も、米軍機の爆音に追いかけられたことがある。いずれも、北に伸びる亀岡街道沿いでのことだった。

 それだけではなかった。警戒警報、空襲警報がしょっちゅう鳴った。サイレンではなく、ここでは半鐘がそれを知らせた。

 澄子は買い物の帰りに、南の空に焼夷弾があられのように降るのを何度も見た。「B29」の大編隊が発するごう音が耳をつんざく。徳三は大空襲のたびに、燃えカスの新聞紙が空から降ってくるのを見たのだった。


 初夏、近藤宗道に召集令状が舞い込んだ。そして、京城(現ソウル)へ。この時期の召集が、戦局の悪化を象徴していた。


 そして、終戦。8月15日。蒸し暑い日だった。寛三一家と、主を召集された近藤一家とが、隣合わせの部屋のラジオの前に座った。こうべを垂れ、玉音放送に聞き入った。だが、子供の耳には雑音としか聞こえない。終わって、うなだれた寛三が「(日本は)戦争に負けたんや」とうめくように言う。「負け」とはどういうことなのか、徳三にはよくわからなかったが、一向に顔をあげない両親の姿だけが異様に映った。二つの部屋の誰もが、しばらくは沈黙を続けた。なんともあっけない「戦争の終わり」だった。


 以来、警戒警報も空襲警報も消えた。秋が深まるころ、機銃掃射の舞台だった亀岡街道を、米兵が乗ったジープがしょっちゅう走り始めた。それは、幼い徳三らに敗戦の事実を知らしめる十分な光景だった。


 疎開生活が長期に及んで、食糧事情は悪くなる一方だった。

 寛三夫婦が物々交換の品を大空襲から逃げまどった日にも一緒だった乳母車にのせて出かける日が増えた。楽器店時代のたくわえが役に立つこともあったが、銀行が封鎖され、預金が凍結状態となってからは、物々交換だけが頼りだった。三畳の家財小屋の、おもにマチ子の衣類がどんどん消えていった。明るいマチ子が、山道を下りきったあたりに点在する農家の主婦たちにかわいがってもらえるのだけは救いだった。もちをつく日に家族でおよばれし、たわわになったトマトをただ同然で分けてもらって飢えをしのいだ。徳三には「夏の時期、来る日も来る日もトマトを食べていた」との記憶が今も残る。


 マチ子が土地の人に可愛がってもらえるのとはうらはらに、子どもの世界ではそうはいかなかった。徳三が分校の生活に慣れるのと反比例して、いじめにあうことも増えた。

 神峯山寺があるのは、高槻市原地区である。そのころは原村だった。このあたりは江戸の昔から寒天の産地だ。市中心部より気温が一段と低いのを利用する形で、農家が農閑期の仕事にしていた。このあたりまで住宅地が伸びて生産量は減ったが、当時は芥川の両岸のあちこちに寒天小屋が点在していた。

 いじめは、その寒天小屋でたびたび起きた。登校時の集団通学に遅れただけで、小屋に連れ込まれ、殴られた。すぐさま謝ればいいのに、徳三はそれをしなかった。徳三の「都会の子」ぶりが土地っ子の反感を買ったこともある。徳三は、殴り返すこともせず、ただ、耐えるだけだった。徳三だけが例外ではなかった。疎開っ子の多くがいじめの対象となった。


 わが子のそんな姿を横目で見て、寛三の憂鬱は増す一方だった。いつ、道頓堀に戻るか。戻って何をするか。そのための資金はどうするか。どれもこれも、解決策と出口のない大問題だった。それでもまだ、うどんやそばのお店を生業とする決心はつかなかった。




<筆者の独り言>

 昭和6年に創刊された郷土研究のための月刊誌「上方」を読み漁っているうち、「道頓堀変遷号」と副題のついた22号(昭和7年10月1日発行)にぶつかりました。その中で最も多くのページを割いていたのが「道頓堀座談会」。今井の4代目、今井三之助さんも「道頓堀楽器店主・元芝居茶屋稲竹主人」の肩書でその座談会に参加。芝居茶屋の今昔を語っているのですが、その中で、司会を務めたこの雑誌の編集兼発行人の南木芳太郎がいう「座談会開催の趣旨」に興味をひかれました。

 いわく「道頓堀の情調、つまり特色がだんだん滅び、移り変わって行く、例えば、五座の櫓の形容や表飾りにしても昔の俤(おもかげ)がなくなりました。中座の大歌舞伎でも千日前の一角に大殿堂(歌舞伎座のこと)が出来上がっていくという調子で、今後の道頓堀がどう変化するかわかりません」。

 南木はこの「上方」を中心とした大阪研究の膨大な資料を「南木文庫」として残したことで知られる人物ですが、昭和の初めのこの時期に、「道頓堀は変わった」と嘆いているのがよくわかります。道頓堀が、江戸は元禄期に芝居のピークを経験し、世の動きにつれて様々な顔を見せるそのたびに、人は「変わった」というのですね。現在も例外ではありません。多くの方が「道頓堀は変わり過ぎた」と言いまくっています。

 本当にこの町は、多くが嘆き悲しむように変わったのか。情調は確かに変わったけれど、芝居小屋が連なった草創期のDNAは依然残っているのではないか。そこからの復活は、今の道頓堀に生きる方たちの努力で可能なのでは、とも思うのです。

 今も昔も変わらない嘆き節だけでは、街は変わっていくばかりなのでしょう。

 

 

 なお、変遷号の別のページに今井家代々の芝居茶屋「稲竹」が使っていた印鑑が、他の芝居茶屋のそれと一緒に掲載されているのを見つけました。大阪大空襲でそうした遺産の一切がなくなってしまっただけに、いわば大発見です。それと座談会特集の中に、三之助さんの似顔絵も掲載されていて「よう似ている」のだとか。いずれ、本編に登場させる予定です。

第2章 大転換3

大転換の立役者 今井 寛三(5代目)
大転換の立役者 今井 寛三(5代目)

 秋の気配がしのびよるころ、今井楽器店の店主、今井寛三の憂鬱は深まるばかりだった。

 

 1945年(昭和20)3月の大阪大空襲で焼け出され、高槻市郊外の寺、寂定院に一家6人で疎開したのもつかの間、玉音放送で敗戦を知る。いつまでも疎開先の世話になるわけにもいかない焦燥感に襲われ、新たな立ち上がりを頭の中で模索し始めた。しかし、妙案は浮かばない。どうしたものか。答えが出ないのだった。

 

 そんな気を紛らわすように、寛三は8畳間の隅で小刀を使い、竹細工にいそしんだ。天性の器用さに恵まれ、プロはだしの出来栄えの箸、鍋敷き、寒天を押し出す器具などがどんどんできあがった。

が、小刀の手を休める時、ふと思う。これからどうするか。父、三之助に強引にすがり、江戸期以来、今井家の商売だった芝居茶屋に見切りをつけ、楽器店経営に乗り出す大転換を経験した寛三が、今は別の形の大転換を迫られているのだった。

 それにつけても思い出すのは「楽器店をやりたい」と自ら言い出したころのことだった。道頓堀川が青い灯赤い灯に照らされ、芝居小屋に変わる飲食店やカフェーが客を呼ぶ。芝居茶屋が斜陽といわれ始めた、そんな時代に見切りをつけた自らの若き決断をはんすうしながら、その時とは違った大転換の明日を模索するのだった。

 劇作家から小説家に転じた三田純市が「遥かなり道頓堀」を世に出したのは1978年(昭和53)だった。三田は、今井家が芝居茶屋「稲竹」を営んでいたころに稲竹で女番頭を務めていた野村照の孫である。照はその後「稲竹」を引き継ぎ、角座向かいで「稲照」を始めるのだが、三田は照の亡き後に店を継いだ母、浜から道頓堀五座と芝居茶屋のことを聞かされ続けて育った。 「遥かなり道頓堀」には、だから、芝居茶屋「稲竹」と「稲照」のリアルな姿が盛り込まれた。

 寛三が思い出す、最も華やかだった道頓堀と芝居茶屋、そして自分の決断が生んだ「楽器店への大転換」も、そこに克明に描かれている。

 

 御所(奈良県)の「平和」の娘テルが道頓堀の芝居茶屋「稲竹」へ奉公にあがったのも、ちょうどそのころ(注、明治22年ごろ)であった。

 天保ごろの記録に、すでに芝居茶屋としてその名の出ている稲竹は、はじめは中座の向かい、道頓堀の浜側にあったが、明治17年12月の中座の火事に類焼し、翌18年11月、中座が新築再開するころには、その中座の東隣に、中座よりはひと足先に暖簾を吊っていた。

 現在、中座の東隣にある、うどんの今井、の場所である。

 テルは、この中座の東隣の稲竹の、勝手口をくぐった。

 道頓堀の南側の店は敷地に余裕があった。特に稲竹の東横は、道頓堀の通りから法善寺の境内まで細い路地があって、稲竹の勝手口は、道頓堀に面した客の入口とは別に、その路地についていた。その勝手口と並んで、法善寺寄りは中座の楽屋口で、鴈治郎も我當もそして延二郎もそこから楽屋入りをした。(「遥かなり道頓堀」から)

 

 明治半ばの付近のたたずまいが今とほとんど変わらない姿だったことを、これほど精緻に、具体的に描いたものはこの小説以外に例をみない。

 三田純市は加えて、勝手口をくぐった祖母、照が稲竹の主人、今井三之助(注、今井の4代目)と交わした会話とお茶子の仕事ぶり、そして、南側に位置した稲竹の客の迎え方までを淡々と書き連ねている。

 

 「ホウ、御所の生まれか。うちの先祖も大和。それも御所とそう離れてへんところや」

 大和の今井郷が先祖の土地や。そこで御維新のあと、苗字を今井にしたのや。

 稲竹の主人、今井三之助は、テルの生れ在所を聞くなり、こんな話を持ち出した後、

 「しかし、もうおちょぼという年やないなあ」

 芝居茶屋へ奉公に来るには遅すぎる、と言いたげな口吻であった。

 おちょぼ、と呼ばれる走り使いの小女が奉公に上がるのは、たいてい12、3からである。そして、見様見真似で芝居茶屋の客扱いを覚え、やがて、一人前のお茶子になっていく。一軒の芝居茶屋にはそのようなお茶子が5、6人ずついたが、そのお茶子を束ねるのが女番頭である。

 芝居茶屋の商売はほとんどこの女番頭がやるといってよい。

芝居へ行って、必要な桟敷を押さえるのもこの女番頭だし、客から貰った祝儀を輩下のお茶子たちに割り振る権利もこの女番頭にあった。

(中略)

 奉公してみて、テルが何よりも驚いたのは、この女番頭の権力の絶大さだった。

ときには、芝居茶屋の主人などは、この女番頭に商売させるために暖簾と場所を貸しているにすぎないのではないか、とさえ思うことがある。

(中略)

 こう気が付くと、テルは急に心が弾んだ。いいところへ奉公に来たものである。ここでなら女でも天下をとることができる。体を汚さなくても出世する道がこの道頓堀にはあった。(「遥かなり道頓堀」から)

 

 道頓堀で働くお茶子のすべてを動かすような存在になっていく野村照は1916年(大正5)、芝居茶屋「稲竹」の営業権を譲り受け、角座向かいの地に新たな芝居茶屋「稲照」を開業する。芝居茶屋の先行きに対する考え方、営業権譲渡の決断などそのときの今井三之助の判断の大半は、長じた今井5代目、寛三の楽器店開業への熱意と「道頓堀に、新しい時代がくる」との予感に押されてのものだった。

 

 疎開先の寺の8畳間の片隅で悶々としながら「あのころ、芝居茶屋は確かに終焉の時を迎えていた」と寛三は改めて思う。しかし、楽器店を失った今、これからどうしていくのか。思い出の中にさまよいながら、答えにたどり着けない寛三の煩悶は増すばかりだった。

 

 


<筆者の独り言> 

 「和食 日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録されたのは2013年の12月。今年の4月には、それまで任意団体だった「和食文化の保護・育成国民会議(和食会議)」が、一般社団法人化した「和食文化国民会議(同)」として新たなスタートを切りました。

 和食会議の法人化へ向けて、その発起人の一人となった龍谷大学教授で和食会議の副会長、伏木亨さんが、3月下旬の毎日新聞で「だし(出汁)」について持論を開陳されていたのを思い出しました。伏木さんは和食の味わいを決める「だし」や発酵食品の研究家で知られ、最近は「おいしさ」の研究をも進めているユニークな学者です。

その「だし」論を要約し、ちょっぴり紹介します。

 

 「だし」は世界中にある。中国やフランスなどでは系統的な材料と出し方の技術が確立されている。日本はわりにシンプルで、歴史的にはカツオと昆布が代表格だ。だしとかスープは、うまみを引き出すという意味では共通で、世界中の人がうまみを「うまい」と思っている。過去の実験でも、うまみは「おいしい味」であると実証されている。

 欧米や中国のだしは、いろいろな食材から長時間かけて煮出して、ゼラチン質も脂も洗いざらい引っ張り出すのが主流。日本のだしは、例えば北海道の北海域の昆布は、グルタミン酸とアスパラギン酸だけのシンプルな構造。それを60数度で1時間煮出して、昆布を引き上げてしまう。それ以上だと、青臭さや雑味が出る。この少数のアミノ酸と匂いだけのだしに、カツオ節をどさっと入れて、こちらも数分で引き上げる。それ以上だと味は濃くなるが、雑味が出る。日本のだしは、できるだけ雑味を出さないよう、うまみ成分だけを出すことに徹底していて、とても純粋だ。これが、素材の味を大事にし、素材の味を鈍くさせないことにつながる。

 素材を大事にするのは宗教が関係していると思う。すべてのものに生命があり、そこに神が宿っている―それを「いただいている」という感覚だ。欧州のだしは、自分が作っただしのスープのうまさですべての物を征服しようと思っている。彼らには、自然は征服すべきものであり、日本は、自然を敬って一緒に生きていきたいと思っている。(毎日新聞から抜粋)

 

 だし論としての名言が続いていますが、道頓堀今井の「だしの哲学」もこれに負けていません。楽器店からうどん・そば店に大転換を果たして、来年で70年。その歴史は、「素材を生かすだしをどう引くか」の連続でした。きつねうどんのだしと、にゅうめんのだしは、使う材料も違うといいます。「和」の現場のうまみへの挑戦は、いずれ本編で紹介します。


柳そば(6月)
柳そば(6月)

 さて、今井オリジナル「季節そば点心」の6月のメニューは「柳そば」です。

 店に入ってメニュー表を開くと、しゃれた柳そばの説明文が目に飛び込んできました。

 

 柳の葉って、裏が白いのをご存じでしたか?今井の玄関に永年たっている柳が気持ちよさそうに雨に打たれてつやつや光る季節です。(柳そばは)当店のシンボルでもある、この柳をイメージしたおそばです。

 茶そばと更級そばを合わせ打ち(2枚がさね)しました。目にも涼しげな青竹の器でお楽しみください。

  器は、直径10㌢はゆうに超える緑いっぱいの孟宗竹を二つ割りにし、30㌢近い一節をまるまる使ったもの。丸い底に氷が敷かれ、その上に、緑(茶そば)と薄茶(更級そば)のだんだら模様、極細のおそばが、細長い柳の葉の形で泳いでいるのです。その両脇にはかまぼこと甘辛いシイタケの煮しめが。ギンギンに冷え、やや硬めの食感が、外の蒸し暑さを忘れさせてくれました。点心も季節の野菜にあふれ、絶品。きゅうりをバスケットに型どり、そこにキャビアとイクラをのせてあるのが印象的でした。

 

 ちなみのこのシリーズのタイトルは「芝居とジャズと、宵待ち柳」。この宵待ち柳こそ、今井のお店の玄関左にある柳そのもの。それが、季節そばの名になっているのを初めて知りました。

 

 

第2章 大転換4

 芝居茶屋から楽器店への大転換を成功させた今井の5代目、今井寛三の逡巡は、谷あいの寂定院に霜が降りるころになってもなお続いた。

1945年(昭和20)の大阪大空襲ですべてを失った寛三らが、そこに疎開してはや半年。新たな道への模索を続けながら、一方で、芝居茶屋の良き時代までをも脳裏に浮かべていた。そして、「あのころがそのまま続けばよかった」とも思うのだった。


 そのころの芝居は朝が早く、夜は遅い。午前8時にはもう序幕が開く。

 お茶子たちは朝の5時に起きては掃除をはじめ、終わると身じまいもそこそこに、客を迎える用意をしなければならない。

 稲竹は道頓堀の南側にあったため、自分の店の浜、すなわち船着場を持たない。そこで稲竹の客は日本橋の袂(たもと)や相合橋、太左衛門橋などの袂に舟をつけるのだが、その客を迎えるのもお茶子の仕事だった。

 稲竹と書いた提灯を手に川岸へ立つ。満潮の折など、川岸にヒタヒタと波が寄せ、出迎えのお茶子の足を濡らすこともしばしばだった。

 「お足もとに気をつけとくれやすや」

 言いながら、御影石が段々になった雁木を一段一段、提灯で客の足許を照らしながら道頓堀の通りへ上がり、そこから店へ案内する。客は案内された芝居茶屋の座敷で、化粧を直したり、衣装をとりかえたりして、芝居への案内を待っている。(「遥かなり道頓堀」から)


 押しかけ従業員だった野村照もこの世界になじみ、お茶子として一人前になった。やり手の照のおかげもあってか、「稲竹」は順調に売り上げを伸ばした。最大の得意先は鴻池家。お茶子がフル回転したら、主はすることがなかった。丁場で暇を持て余しているのが仕事のようなものだった。

 照が勤め始める1年前、元の新町廓の一角にできた新町座で旗揚げした角藤定憲らの新派劇が道頓堀・浪花座に進出してきて、この町に新しい息吹をもたらした。芝居茶屋連合が出資しての舞台だった。稲竹も当然のように出資した。今井三之助は毎日の売上を計算すべく、浪花座に出張り、女人禁制の大勘定に他の出資者と交代で座った。

 しかし、芝居の隆盛、芝居茶屋の絶頂期はこのあたりまでだった。

 芝居景気のピークといってもいい1874、5年(明治7、8)あたりに63軒を数えた芝居茶屋は、東の方から徐々に減り始めた。日露戦争に揺れ、大阪の第四師団にも動員令が下された1904年(明治37)には20軒と三分の一に激減。寛三の決断で、稲竹が楽器店への大転換を図った16年(大正5)には、17軒にまで減ってしまった。

 人形浄瑠璃、歌舞伎が退潮する一方で、それに代わる新たな潮流が定着しなかったこともある。角藤らの新派劇は最初こそ華々しかったが、その後は沈滞し、芝居小屋、出資者のお荷物になっていった。そして何より大きかったのは、芸能の大衆化の流れの中で、芝居茶屋に上がることからスタートする観劇法が敬遠され始めたことだった。


 芝居の街・道頓堀に陰りが見えたころ、寛三は父、三之助とひざ詰め談判におよんだ。


 「お父っつあん、もう芝居茶屋の時代やないで」

 切り出したのは、息子のほうからである。テルの娘のお浜より一つ下の寛三はこの年二十歳、府立の天王寺中学校を卒業して、もはや一人前の青年だった。

 「見てみなはれ、このごろの道頓堀を」

 たしかに、大正初年の道頓堀は変貌しつつあった。

 明治の道頓堀は、五座の櫓を中心に芝居茶屋が軒を並べ、どこまでも芝居中心の町だった。

 が、時代も大正になると、そろそろ、その芝居中心が怪しくなりはじめた。

 毎月の芝居の入り不入りに一喜一憂し、

 「今月は芝居が悪いさかい、うちの商売までさっぱりや」

 こぼしていた道頓堀の食い物屋も、今日このごろでは芝居の景気に左右されることもなく、いわば芝居からは独立した形で、商売が成り立っていくようになった。

 新しい店もできた。

 浪花座の東にカフェ・パウリスタが開店したのはつい2、3年前のことだった。一杯5銭のコーヒーが新しい時代の香を漂わせていた。もう一軒、これは芝居茶屋稲竹の真向かいについ最近誕生した。カフェ・ド・パノン――旗のバーというこの店には、寛三も顔見知りの役者たちのほか、画家や文士連中が顔を見せ、芸術談義に花を咲かせている。

 「芝居茶屋というもんが、これから先、どないなっていくのか・・・・・。それは儂も思わんでもないが・・・・・」

 父親の三之助が言う。

 「で、商売をやめたとして、あと何をやるのや」

 三之助が、突然、話を飛躍させた。

 「僕は舶来の楽器店をやりたいのや。レコードや蓄音機や、それにマンドリンを店へ陳列して・・・・・」

 寛三はカフェ・パウリスタの入口の、自動ピアノを思いながら、勢いづいて喋りはじめた。

 寛三が神戸の貿易商の店を訪ねて廻り、舌を嚙みそうな外国の楽器メーカーの名を三之助に報告しはじめたちょうどそのころ、「テルに芝居茶屋をやらせとうおますのやが」の話が持ち込まれた。(「遥かなり道頓堀」から)


 長い引用だが、寛三と三之助のやり取りはこんな調子だった。1919年(大正5)の夏のかかり。芝居茶屋から、芝居の道頓堀に初めて登場する西洋楽器店へのこの大転換はあっさり決まった。そして、それは大成功だった。

 天保以来、70年余続いた暖簾をかくも簡単に畳んだ三之助の決断もすごいが、二十歳のなったばかりの寛三の時代を読んだ判断もまたすごかった。


 我に返った寛三は思うのだった。

 そんな冒険ともいえる船出が、今度もできるのだろうか。それには、何があるのか。楽器店の焼け跡に呆然と立ち尽くして以来、頭を離れなかった次の一手を、寛三は探しあぐねた。

 しかし、疎開先の8畳間に座って小刀を見つめるその寛三には、想像だにしない大転換が間もなくやって来るのだった。

 


<筆者の独り言>

  この連載を始めて以降、資料との格闘に明け暮れています。

  そんな中にあった資料の一つ、大阪市史編纂所編集、大阪市史料調査会発行の「大阪の歴史」62号(2003年7月発行)で、仏文学者の藤田実さんが、「座」と「芝居」の違いについて書いておられるのに興味をひかれました。

 道頓堀の中座や角座、浪花座は江戸時代からあった劇場ですが、元々は「中の芝居」であり「角の芝居」「大西の芝居」でした。京都・南座も同様にかつては「南の芝居」でした。一方、江戸では劇場ができた最初から「市村座」であり「中村座」「森田座」と呼んでいたといいます。上方は「芝居」、江戸は「座」だったのです。

 その違いは、上方と江戸の芸能興行慣行の伝統的な差にあるようです。

 藤田さんによると、「座」は一座、座長などという言葉があることからもわかるように、元々は劇団そのもののこと。幕府が開かれ、江戸という町が急成長し、あちこちから様々な劇団がこの町にやってきます。しかし、江戸にはそれに対応する設備(劇場)がなく、それぞれの劇団が土地だけを借り、自前で劇場を建てて興行した。つまり、一座イコール劇場、一体不可分の関係であったというわけです。

 これに対し、上方の「芝居」は、「芝地に居る」という意味で、芸能を見物する場所のことをいっていました。各種の劇団が多数存在する一方で、芸能興行用の土地や施設を所有していろんな劇団に貸すものが現れていた。つまり、劇団と劇場の経営は分離していたので、劇団を「座」、劇場を「芝居」と分けて呼んだのだそうです。

 明治になって、東京でも劇場と劇団の分離が進み、その過程で「座」が劇場の呼び名として定着。逆に芝居は、「お芝居を観る」の表現に代表されるように、劇場のことではなく芸能の内容を意味する言葉として使われ始め、こちらもすっかり定着してしまいました。

 「座」と「芝居」は今や、ほとんど正反対の意味で使われているわけですね。とはいえ、現在の道頓堀では明治期に生まれた「松竹座」が歌舞伎の殿堂として気を吐いているのと、寄席の興行地としての「角座」と、芝居とは無縁のビルに「中座」の名が残るだけ。江戸期から続いたかつての道頓堀五座は見るかげもありません。

 

 道頓堀今井の現社長で7代目の今井徹さんは「芝居のDNAは今も残っている」と口癖のようにおっしゃいます。もちろん、そうであってほしいし、その証として「座」も「芝居」も欠かせない道頓堀に、少しは戻ってほしい気もします。

 

第2章 大転換5

 あれほどうるさかった虫の音がピタッと止んだかと思うと、寂定院に覆いかぶさるように伸びた木々の梢を木枯らしが吹き抜け始めた。師走に入ると、雪がちらつく。それは、一夜にして周囲を白い世界に変えていく。

 この地の特産、寒天をつくるのに欠かせない寒さは、疎開してきた今井寛三ら一家6人を震え上がらせた。綿入りの甚平を着こんだ清三や徳三はうち懐に両手を入れ、背をかがめて寒さをしのいだ。二人は、道頓堀の楽器店当時に足をのばした櫓こたつを思い出していた。

 

 1945年(昭和20)初秋からこの間、敗戦国・日本はすさまじい勢いで変わっていった。東京、大阪をはじめとする大都市は相次ぐ空襲で焼け野が原となりながらも、復興の槌音に囲まれだした。が一方で、極端な物資不足が人々に「タケノコ生活」を強い、都市のあちこちに闇市がはびこり始めた。町で「ギブミー チョコレート」と米兵に手を出す子供たちが増えたのもこのころである。そして、なにより敗戦を象徴したのは、パンパンと呼ばれた私娼が、倍ほどの背丈の米兵の腕にぶら下がるようにして町を歩く姿だった。舞鶴の桟橋で我が子の帰りを待つ「岸壁の母」の姿も、敗戦が生んだ悲惨な光景だった。

 この年の9月27日、連合国軍は大阪への進駐を開始した。占領部隊は米第5師団だった。玉音放送から1か月半も経っていない時期である。

 接収した住友本社(中央区北浜4丁目)を師団司令部(後に日生ビルに移動)とし、御堂筋の百貨店「そごう」が「PⅩ(購買部)」に変わった。そして、師団本部を日生ビル、歩兵連隊本部を大阪商科大(現在の大阪市立大)に置いた。焼け残った大きな建物の多くが接収の対象だった。大阪の心臓部は占領地となった。

 

 道頓堀も、週末ごとに米兵の娯楽場と化した。カフェが米兵で埋まり、この時期、芝居人気は底を付いた。多くの人が食うや食わずの生活を強いられ、芝居どころではなかったのである。だが一方で、46年(昭和21)暮れ、相合橋東南詰めにバラック建てのストリップ小屋「道頓堀劇場」がオープンした。着ている着物を一枚ずつ脱ぎ、腰巻き一枚になったところで石膏像のようなポーズをとって暗転、幕-といったお決まりのショーが大当たりした。道頓堀の最初で最後のこうした劇場はわずか数年で消えた。 

 

 そんな敗戦の混乱とは無縁だった寂定院を含む神峯山寺の寺域全体が、師走とともに純白の世界に変わった。そのころには、住職の近藤宗道が京城から復員してきていた。宗道に召集令状が舞い込み、寺からいなくなって半年。これで双方の家族にやっと笑顔が戻った。しかし、忌まわしい敗戦の年は、今井家のこれからに何の展望ももたらさずに暮れた。

 

 明けて正月。

 元日の朝、御内仏(本堂兼住居)の8畳間に、一家6人が並んで座った。いつもの新年と同じように、それぞれのひざの前に膳が置かれている。寛三の妻、マチ子が家財小屋から出してきたものだった。塗りと、陶器製の重箱も用意された。何もない疎開先のことで、たっぷりのおせち料理というわけにはいかなかったが、ごぼう、黒豆、そしてもちが用意されていた。

 全員でまず、般若心経を唱え、大福祝いを口にした後、

 「はい、おめでとうさん。お祝いやす」

 寛三がいう。

 「へい、一緒にお祝いやす」

 家族が全員で復唱した後、めいめいが雑煮にはしをつけた。

 ナニワの旧家の年の始めのしきたりを、一家はこの年も欠かさなかった。

 

 寒さが去り、木々が芽吹く。桜が満開の時を迎えた。

 が、その時期になっても、寛三は「これから」の結論を出せないでいた。マチ子の手伝いで食料を調達してくる以外は、8畳間の隅で小刀をふるう日が続いた。疎開するとき、一切の公職を離れただけに、道頓堀に行かなければならない用事もない。時は無為に過ぎた。心の疲れが増すばかりだった。

 

「道頓堀に帰る」

 汗ばむ春のある日、寛三は一家全員がそろった席で言った。

 楽器店の跡地に、3畳と6畳の二間続きのバラックが完成しつつあることを、続けて言った。楽器店時代から出入りの「カネやん」という大工に急ごしらえしてもらっていて、完成と同時にそこに戻る、というのだった。

 戦争が終わったのに、いつまでも寂定院に世話になっているわけにはいかない。加えて、知人が寄せてくれた情報だと、焼け跡を勝手に自分の土地にしてしまう手口の「土地盗人」が道頓堀を荒しまわっているのだという。我が家の旗印を一日も早くかの地に建て、守る必要にも迫られていたのだった。

 我が家と、慣れた地に戻れば何とかなる。というより、そこで何とかしなければならない。寛三の中に、「何か」がはっきり描かれていたわけではなかったが、戻ると決めて以来、「食いもん商売」での新たなスタートが、頭にちらつき始めつつあった。ともかく道頓堀で一歩を踏み出す。それしかなかった。

 

 5月。汗がにじむほどの陽気となった日の朝、借りた牛車に家財をどっさり積んだ寛三とマチ子が、先行して道頓堀へ向かった。周辺の農家の働き手数人が手伝ってくれ、牛の手綱を取った。寛三とマチ子は後ろを押した。淀川を渡る傾斜地で牛が悲鳴を上げた。全員で押す。みんな、汗びっしょりだ。ここを渡りきるのに20分はゆうにかかった。

 夕方までに着き、子らの受け入れ準備をして待つ。コマと3人の姉弟は翌日、バスと電車を乗り継いで戻った。

 

 一家全員が我が家に戻っての生活にほっとし、うれしく思えた半面、待っていたのは疎開地よりひどい飢餓の生活だった。

 

 


<筆者の独り言>

 今年正月過ぎに道頓堀本店を訪ね、「あれっ」と思わず声をあげてしまいました。

入口の右側に「頬かむりの中に日本一の顔」(岸本水府)の川柳碑と一緒にあったはずの宵待ち柳がないのです。ここから柳がなくなったら「道頓堀今井」ではなくなる。一体、どういうこっちゃ。

あわてて、社長の今井徹さんに連絡をとると「ああ、今、植え替えの途中ですわ」。この取材を始めて見慣れた柳は、実は1947年に高槻からやってきた初代から数えて3代目の柳。それが、4代目に替わる途中だというのですね。

 どうして。

 聞けば、柳にとって「道頓堀の赤い灯青い灯」はあまりいいものではないらしいのです。こういう光に年がら年中あたっているのが相当のストレスになるらしく、樹勢が衰えるので、十数年に一度は植え替えなければならないということでした。

 数日後に再訪すると、新しい柳が元のところに枝ぶりもよく茂っていました。冬場なので緑の葉は少ないものの、見るからに元気そのもの。やっぱり、ないといけませんね。

 宵待ち柳はこの店のシンボルです。

 

白波そば(7月)
白波そば(7月)

 今井オリジナル「季節そば点心」を3月から食べ始めて、もう7月。

 今月のメニューは「白波そば」です。

 7月の浪速といえば、天神祭に鱧(はも)。このおそばには、そんな季節感あふれる鱧が満載されていて、点心にも季節の心配りがいっぱいです。

 細目に打った手打ちそばを、こんぶとカツオがしっかり効いた冷たいたっぷりの出汁に泳がせ、薄く細切りした活け鱧のおとし(湯引き)に梅肉を乗せて、煮しめたシイタケと一緒に盛り付け、漆塗りの器でいただくのです。

 冷たい出汁の場合のそばは「細目」に限る、と社長の今井徹さんは言います。普段の手打ちの三分の二ほどの太さがいい、のだそうです。しかも、「味はすこし濃い目で」。なるほど、口に広がる清涼感の秘密は「細目と濃い目」でした。

 

 点心は、うちわを型取った漆の塗り盆に盛られて。白ウリにとりのミンチを詰めたものに利休麩の煮しめ、鮎すし、そばのウニ和え、鱧の子、焼いたさわらなど。いずれも季節を意識した材料を使い、彩りも鮮やか。食べて、梅雨空のうっとおしさも吹っ飛びました。

第2章 大転換6

 疎開生活から1年2か月余が過ぎ、今井寛三一家の道頓堀での生活がスタートした。

1946年(昭和21)5月。楽器店時代から出入りの大工が建ててくれたバラックが、大阪大空襲でレコードの溶けた塊ばかりが目立った焼け跡に姿を見せていた。

 一帯は、前年3月の大空襲直後に見た焼け野が原のままだった。通りに立つだけで四方を見渡すことができ、北東には大坂城が、北に「そごう」などの焼け残った建物がいくつか見えるだけで、がれきの山がどこまでも続いていた。

 今井のバラックの真向かいに、細い丸太の骨組みをむしろで囲った「家」ができ、所有者とは無縁の引き揚げ者が住み着いた。太左衛門橋、相合橋は大空襲で燃え落ちたものの、焼け残った戎橋や道頓堀橋の下には行き場を失った何組もの家族が板張りを仕切りにして住んだ。船場にも、ミナミの千日前にも、そして難波駅周辺にも、焼け残った材木やトタンとむしろで急造したねぐらが、点々と並んだ。防空壕の跡までもが「家」になっていた。人はそれを壕舎と呼んだ。

 周辺には、身寄りをなくした多くの浮浪児・者が徘徊していた。


 それに比べると、今井一家のバラックは相当にましだった。

 通りに面して、板張りの屋根と周囲を板張りにした8畳見当の土間。その奥に3畳と6畳の部屋があった。3畳間と6畳間には、稲わらを二の腕ほどの太さに分けて荒縄で結んだ束が一面に敷き詰められ、その上に畳がわりの茣蓙(ござ)がのっていた。夜、その上に高槻から持ち帰った布団を敷いて寝る。6畳間が寛三夫妻と清三。徳三は6畳間にしつらえた押入れがねぐらだった。3畳間はコマと宏子の居室になった。

 そして、その南奥はかつて地下倉庫だったところ。住み始めて間もなく、切り妻の屋根がかけられ、物置になった。さらにその奥の、蔵だったところは空き地のまま。後に畑とウサギ小屋やニワトリ小屋に化けた。その南に井戸があり、西の壁際に、寛三が粘土でこしらえたへっついが置かれた。井戸とへっついの空間に調理台が置かれ、煮炊きのスペースとなっていた。

 道頓堀通りから法善寺横丁に抜ける浮世小路と平行するように、通りからバラックの奥まで突き抜けられる通路が東端にあった。西側には今井と中座を隔てるレンガの防火壁が残り、さらにその西はごみ置き場。周辺のバラックとはけた違いの空間だった。そしてなにより、そこは家族だけがくつろげる場所。みんな、生きる元気を取り戻した。



5代目寛三の貴重な写真(戦後すぐの道頓堀:現本店の場所)
5代目寛三の貴重な写真(戦後すぐの道頓堀:現本店の場所)

 道頓堀に戻ってすぐ、一家は食いもんを売ることで、自らも食いつなぐことにした。

 今井寛三にとってそれは、考えて選択した仕事というより、そんな形でしのぎをつけるしか方法がなかった、という方があたっている。

 道頓堀の通りに面した8畳見当の土間に、高槻から持ち帰ったソファを置き、マチ子の実兄が回してくれた醤油などを並べて、新たな商売が始まった。が、さっぱり売れなかった。

 浮世小路沿いにはみ出すように屋台の形をしたよしず張り2組が、寛三の手作りでできあがった。丸太を削り、5人ほどが座れる床几に緋毛氈(ひもうせん)を敷いた客席も寛三が作った。夏に向かって、そこで氷水を売り、寒天を売った。炎天の日が続くと、よしず張りの南奥に置いた氷台がフル回転した。客が10人を超えるといっぱいになるが、客の回転は早かった。

 パンパンを連れた米兵がひんぱんに顔を見せ、氷水を注文した。戎橋南西詰めの一角、かつての浪花座の西の接収された建物にできた進駐軍専用のジャズバーから東に流れた米兵だった。上客だった。

 秋の気配を感ずるころには、焼き栗も売り物にした。寛三が売り台に立つこともあった。

 寛三が寺の片隅で作った竹細工を、マチ子と徳三が行商して売りさばこうとした。子連れで同情を買う作戦だった。でも、思い通りの値では売れなかった。いつもたたき売り同然の安値で買ってもらうしかなかった。

 

 これらの売り上げがすべて、一家の食費にまわった。しかし、6人の糊口をしのぐには少なすぎた。重湯より薄い雑炊に、道頓堀川の岸辺で摘んだ雑草が混じっていた。雑草がいがらっぽくて食べにくい。清三、徳三が「食えんわ」と口にするたび、寛三が「黙って食べなはれ」と怒鳴る日が続いた。

 

 セミの音が止み、秋の気配が道頓堀の川面に漂うころ、氷水が売れなくなった。

 9月をまたいだ10月。おしるこ、ぜんざいを売った。内緒でめん類を売る。乾麺だった。客が付いた。マチ子は「これだ」と感じた。

「これでいきまひょ」

 内心、楽器店を再興したくてうずうずしていた寛三の尻を、マチ子は叩いた。そして、まっしぐらに進んだ。

 道頓堀の通りに面した入口の左側に、これも寛三手製の行灯がつるされ、そこに「今井」と寛三が墨書して、看板にした。芝居茶屋だった風情がよみがえった。入口の左側には「稲照」の行灯が掲げられた。疎開空地に含まれ、撤去されてしまった芝居茶屋「稲照」に軒先を貸したせいである。その行灯は、「今井」より一回りも大きかった。

 楽器店が戦禍に奪われ、大転換して「おそばとうどんの店」、後の「御蕎麦処 今井」がスタートした瞬間だった。

 

 食うや食わずが、2年は続いた。

 その途中、「中座」再興のつち音が響き始めた。コンクリートをこねる水は、今井所有の井戸を使っての工事だった。「今井」との間を仕切っていた防火壁の西側一帯に足場が組まれた。足場をとび職が飛び回り、活気とにぎわいが戻ったようだった。

 1947年(昭和22)秋、中座の完成が見え始めたころの夕方、徳三は同級生と中座の屋根のてっぺんに登った。とび職が仕事を終えて去ったころに足場をかいくぐり、瓦屋根の端まで登る。屋根の先端に伸びた一本の鎖につかまり、急こう配をてっぺんまで行く。大屋根にまたがって「絶景なり、絶景なり」と叫んだだけで、鎖を伝って降りた。誰にも見つからなかった。「今ならさしずめ阿倍野ハルカスにのぼった心境」。徳三は笑って振り返るが、てっぺんでのんびり構える余裕は、無論、なかった。

 清三も徳三も、ひもじさを顔には出さず、遊びまくった。秋の夕暮れのトンボとり。満潮時には揚げ潮につかる道頓堀川なのに、水面にフナがはねていて、岸辺から網ですくった。この川と交差して、国立文楽劇場のあたりを流れている川にかかった鉄橋あたりは、小学生らの冒険の場だった。その川は、今はない。

 

 ひもじかった無我夢中の年が、またたく間に過ぎていった。

 


<筆者の独り言>

 うどんの源流とは?

 調べてみると、6世紀半ばごろ、小麦粉を打って伸ばした食べ物で、当時「麺(めん)」と呼ばれたものがルーツのようです。「麺」は、薄い皮状のようにし、具を入れて包んだワンタンや団子汁のようなものだったといわれています。しかし、「これは(うどんとは)別物」という研究者もおり、はっきりしません。

 江戸時代に入って、奈良・東大寺の学僧となった朝鮮の元珍という坊さんが「そばきり」の手法を伝え、以来、線状の麺として食されるようになったそうです。このことから麺は「切り麦」とも呼ばれ、温めて食べるのを「熱麦」、冷やして食べるのを「冷麦」と呼びました。

 「熱麦」は「湯餅」とも呼ばれ、湯餅の俗称だった「温飩」(おんとん)から「饂飩」(うんとん)となり「うどん」となりました。

 うどんを鰹だしと醤油で味付けしただし汁で食べ始めたのは江戸・元禄以降のことといわれ、夜鳴きうどんが登場したのもこのころといわれています。

 

 

 また、信太ずし(いなりずし)の薄揚げをうどんにいれる、おなじみの「きつねうどん」が考案されたのは1877年(明治10)ごろ。現在のような、甘辛く煮た油揚げをのせたきつねうどんが登場するのは1894年(明治27)の日清戦争以降といい、意外と新しいことがわかります。