芝居とジャズと、宵待柳


第11章「明日の今井」に向けて1

  盆踊りが始まる直前、雨がぱらつき始めた。

道頓堀川左岸にせり出して設けられた特設ステージに立つ踊りの主催者、道頓堀商店会の会長で今井7代目、今井徹は浴衣にそれを感じた。それほど強い雨足ではない。が、始まろうとするイベントに水をさす雨だったし、しばらくすると、浴衣が雨を吸い、肩のあたりの濡れが目立ち始めた。

周りにいた関係者の多くが、ため息を漏らした。世界最大規模の盆踊りでギネスの世界記録に挑戦する直前の出来事。世界記録がこの道頓堀で成るか、それともダメか、の瀬戸際である。「あの時は、ひやひやもんでしたねえ」。徹は、当時と同じようなため息交じりで1年前を振り返りながら、言った。

 

 2015年(平成27)8月16日夜。商店会が道頓堀開削400年の最大行事と位置付けて取り組んだ「道頓堀盆踊りインターナショナル2015」がまさにスタートする時のことである。

薄暮の時間帯に近づくと、浴衣に下駄、草履姿の老若男女が、道頓堀橋から日本橋までの遊歩道「とんぼりリバーウォーク」約500メートルの両岸に集まり始めた。嘉門達夫作詞・作曲の盆踊り曲「道頓堀にいらっしゃい!音頭」がボリュームいっぱいに流れ出した。嘉門自身が特設ステージにたち、盆踊りの指導も始めた矢先の雨だった。

これまでのギネス世界記録は、栃木で達成された「1932人の踊りの輪」。盆踊り指導の最中も、踊り手が2000を超える気配がない。そこに雨。小ぶりだが止まないのだ。徹も、商店会役員らも気をもむのだが、どうにもならない。参加を呼びかける大音響が川面に響き続けた。

 

 雨が切れるのをいつまでも待つわけにもいかない。午後7時前、本番が始まった。両岸500メートルに踊りの輪が広がった。最低でも5分間、何人が一斉に踊るか。ギネス挑戦の原則を1分超えて認定の踊りは終わった。何人が踊りの輪の中にいたか。審査は厳重だった。参加者を数え始めて30分はゆうに超えたころだったか、特設ステージに認定員が立った。その数が発表された。「2025人」。記録更新の瞬間、認定員の近くにいた徹の笑顔がはじけた。「うれしい、というより、ホッとしました」。その場で「世界最大の盆踊り」認定証を受けた徹がこの日初めて見せた笑顔だった。

 

  江戸時代に芝居町として生まれ、そして栄えた道頓堀を、平成の世に平成らしく再生させたい。平成に入って激変しすぎた道頓堀を、市民と文化のふれあいの場所として再生させたい。徹はそう考える。

 

 そんな徹が、この町・道頓堀にこだわって手掛けたものがある。

 一つは世界最大規模の盆踊りを、市民を巻き込み、外国の人たちをも巻き込んだ形で実現することだった。それは、ライブエンターテインメントの町・道頓堀を、平成にふさわしい形で再生する試みでもあった。

 新しいチャレンジは、もう一つの世界新記録をも誕生させた。一か所に集まった浴衣姿の人数が2057人と、これもギネス記録だったのだ。後日、ギネスの認定証を手にした徹は「おまけの世界記録です」とおどけて言う。同時に徹は、道頓堀誕生の400年を機に、ミナミの街が連携できた手ごたえを感じている。それまでは各商店街の縄張り意識が強く、それぞれがそれぞれに活性化に取り組んでいたのが、最近では「それぞれを尊重して協力しあう関係が築けてきた」と思えるようになったという。

 

 もう一つは、芝居町のDNAが残っている道頓堀で、そのDNAをてこに発信力のある町をとり戻そうという「上方文化再生フォーラム(上方文化再生実行委員会=今井徹委員長)」の試みである。

 徹が道頓堀商店会の会長に就いた直後の2006年(平成18)7月、法善寺前本通り商店街振興組合の鳥居学理事長の呼び掛けに応じ、宗右衛門町商店街振興組合の岡本敏嗣理事長らとともに「ミナミ五座文化再生フォーラム」を発足させた。まずは「劇場というハードの再建にこだわるのではなく、市民と芸術が触れ合うソフトを見つめなおしつつ、ミナミの文化再生に向けた具体策を講じていく」ことを打ち出した。それは、その秋に角座と精華小学校を会場にして開催した「藤山寛美17回忌記念 大阪ミナミ映画祭」で具体化した。

 この流れで芸能の神で知られる天河大弁財天社(奈良県天川村)分御霊を貰い受け、上方ビル1階に勧請した。その場所に「南乃福寿弁財天」という社も建立したのだが、そのお披露目の際にきてくれたのが近松門左衛門研究の第一人者であり、早稲田大学演劇博物館の元館長だった鳥越文蔵さんだった。鳥越さんは地元の人たちのそれまでの活動を評価し、その後のバックアップをも惜しまない姿勢を見せてくれたことなどから話が大きく広がり、大阪市の助成も受けた「上方文化再生実行委員会」が発足。この実行委が上方文化再生フォーラムをスタートさせたのだった。 

 そのキーワードは、人が集まりエンターテインメントが生まれた道頓堀を平成にふさわしい形で再生すること、そして、ミナミの文化再生である。

 

 実現はしなかったが、道頓堀川を巨大プールに変身させる構想もその延長線上にあった。徹に言わせれば、構想が持ち上がったころの道頓堀には客引きがあふれ、「この町は怖い」のイメージが強くなったころ。「この状況を変えないと」「ミナミを安物化させてはいけない」の思いで、構想の具体化に向けた「道頓堀プールサイドアベニュー設立準備株式会社」の社長にも就任。その先頭にも立った。怖い街のイメージ一掃の延長線上に、高級感あふれるプールに粋な人たちが集まることになれば、の願いが込められていたのだった。

 

 道頓堀開削400年という区切りの年(2015年)の9月、産経新聞の「関西笑談」欄で、徹は幼いころに抱いた道頓堀のイメージを「大人の街」と表現した。両親に連れられて遊びに行くときは「おしゃれをして街を歩いた記憶が残っていた」という。「それだけ上品で行儀のいい街だった」と徹は続けた。

 そんな街が、今はインバウンドがかっ歩する街に変わった。「その一方で日本人の姿が減っていっているのが悲しい。やはり、地元・大阪の人に愛され、自慢できる街でありたい」と言う。そして、「これからの道頓堀は大阪の人だけでなく、地方から遊びにきた人も海外からの観光客も共生できる街を目指さないと生き残れない。そのためにもエンターテインメントを含めた道頓堀独自のコンテンツを開拓していきたい」とも。

 

 徹が道頓堀商店会会長に就任してすでに10年になる。ぼちぼちバトンを譲る時期と考えている。

 「感動してもらえるものを発信できる町に戻したい」

それは、ほんまもんの芝居、ほんまもんの食、そして、大阪の底力が感じられる町、だ。

 

 彼がどんな立場におろうと、道頓堀にこだわる彼の想いは尽きることがないのだった。

 


<筆者の独り言>

 2030年には、近畿の観光都市の宿泊施設が2万6千室も足りなくなる―――そんなショッキングな数字が先月下旬、日本政策投資銀行関西支店から発表されました。

 政府が訪日外国人6000万人の目標を掲げる30年の京都、大阪、神戸、奈良4市における宿泊者数(延べ数)が大阪市で約3395万人京都市で約1616万人神戸市で約739万人奈良市で約209万人に、それぞれ増えると予測。4市の15年時点の推定客室数を使って、その過不足を算出しました。

その結果、大阪市で約25000室、京都市で約5200室、神戸市で約650室が不足。奈良市は60室余る、との数字がはじき出されたとのことです。日刊各紙の報道によると、関西支店の担当者は「対象の各市でホテルの建設計画が相次いでいるが、大阪市を中心に不足解消には至らない、と指摘する一方「宿泊施設の不足で、観光客を取りこぼすことにもつながりかねない」と言っているようです。

2030年といえば、今(2016年)から数えて15年後。その時点で訪日客に見合った宿泊施設を全関西で完全充足するとすれば、1年に1733室のペースで増やす必要があります。単純に考えれば、170室を有した大型ホテルが、1年に10施設強増え続けなければならない計算で、とても到達できる数字ではありません。しかも、足りなくなる大部分は大阪市に集中している現実と考え合わせると、大阪が今後どう変わっていくかが気になるところ。同時にこれからの大坂のホテル地図から目が離せません。

 

よなきそば
よなきそば

 今回の「今井のメニュー紹介」は「よなきそば」です。

 昭和初期、ミナミの飲食店が暖簾をたたむ時間帯になると、いたるところに姿を見せたのが夜鳴きそばを食べさせる屋台でした。これが酔客の結構な人気を集めたようです。

 戦後、それらの店は時代が下るにつれてきえていくのですが、今井の5代目、寛三さん、マチ子さん夫婦がめん類店の本格営業に入った昭和20年代後半、店にきた馴染み客の一人が当時を懐かしんで「あの味が忘れられん」とつぶやきつつ「食べたい」と言ったのがきっかけで、このメニューがあ実現したのだそうです。

 屋台ですから、水をふんだんに使えるわけではありませんから、具材はもっぱら乾きもの。そのさえたるものは「おかき」です。それに細く刻んだ薄揚げ、おぼろ昆布、花かつお。生ものといえばねぎだけでした。寛三夫妻は、それをそっくり再現しました。これを書く前に「よなきそば」を試食したのですが、具材は昭和初期をそのまま復元、出汁はマチ子さんオリジナルの「今井の出汁」でした。

 

 原稿は「そば」で書いていますが、もちろんのこと、「うどん」もありますのでご安心を。

 

 

第11章「明日の今井」に向けて2

 午前6時を回る寸前、今井の8代目、今井康平が吹田市の賃貸マンションで目覚めた。自転車で数分のところにある料亭「柏屋」(吹田市千里山)で修業に入って5カ月。この日は7時半出勤の日だ。

 前夜、仕事を終えてまっすぐ帰ったのだが、家に着いたのは午前零時をかなり過ぎてからだった。シャワーを使ってベッドにすぐもぐりこんだが、5時間もたっていない感じだ。さすがに眠い。

 2016年(平成28)4月に入社以来、こんな日が続く。大分慣れた。というより「こんな日々は当たり前」と康平には思える。それまでの大学生時代、京都で送った気ままな生活からは想像できない「修業だけの生活」に、喜びと楽しささえ見出している自分に驚きさえする。

 いずれかの時期、父の7代目、徹を継いで「㈱今井」の経営に携わる、そんな覚悟は以前からあった。その前段にある「柏屋」での修業は、後継者として通過しなければならないスタート台だ。柏屋には世界を飛び回って日本料理の普及に努める松尾英明がいる。父親から譲り受けた店舗を数寄屋造りに全面改装。芸術的な、美しい日本料理の追求を続ける松尾から学ぶことは山ほどある。それが康平を刺激し、眠気をも吹き飛ばしてしまうのだった。

 

 

  

 康平は1992年(平成4)7月16日未明、泉大津市民病院で産声を上げた。両親の結婚から4年目。姉、晴日の誕生から3年。待望の長男は3440㌘の大きな子だった。「今井」が大きなうねりの中を突き進む時期の誕生でもあった。

 

 90年(同2)8月、5年前に出店した「今井東京店」の業績が好転せず、同店に勤務し実情を厳しくとらえていた徹の進言で、6代目で当時の社長、清三が閉鎖を決断した。

 清三の拡大一途の戦略は、これで中断したかに見えた。が、清三は強気を崩さなかった。翌年3月には道頓堀の本社・本店ビルの建て替え工事に着手した。それまでの3階建てから8階建てのビルにする壮大なものだった。その年の暮れ、大幅な増資もやってのけた。

 康平誕生の2カ月前、本社・本店ビルが完成。営業を開始した。同時にうどん寄せ鍋をテイクアウト商品化。7代目、徹の努力で松坂屋での売り出しに成功してもいた。

 一方、康平が1歳の誕生日を迎えて間もなくの秋、清三が前立腺がんに侵されていることが分かり、衝撃が広がった。清三は、手術などを含むがん治療はほとんどせず、店に出続けたものの、2年後には社長の座を徹に譲るという判断を強いられる。そして降ってわいたような社長交代劇。それも年間売上をはるかに超える負債を抱えての交代劇だった。徹にとっては、最も過酷で最も忙しい時期でもあった。

 

 康平は幼少期、父の顔を見ることはほとんどなかった。自分が寝た後に父が帰り、小学校に入ると、父の寝顔を見ながら登校する毎日だった。しかし、その後ろ姿から学んだものは「自分が父の跡を継ぐ」ことだったように、康平は思っている。幼稚園に通い始めたころから「お父さんの(仕事の)手伝いをしたい」と思っていて、それが、大学卒業を間近に控えた2014年(平成26)の父子問答に象徴的に出た。

 「(今後)どうするねん。継ぐか」

 「継ぎたい」

 康平にとって、何の違和感もない、即座に出た答えが、幼稚園のころに芽生えた気持ちそのものだったのである。

 

 康平には、食に対する関心が人一倍あった。母の両親が自宅(泉大津市)の近くで食堂をしていて、小さいころからそこに入り浸った。小学校入学後は、学校の帰りは必ずといっていいくらい、ここに寄った。おばあちゃんから100円をもらって遊んだ。10日のうち9日は、ここで夕飯を食べて家に帰った。

 小3から小4のころには食堂の調理場に入り、見よう見まねでチャーハン、カレー、ラーメンなどを作っていた。ここに泊まった時などは、朝起きるとすぐ調理場に行き、おじいちゃんの仕込みを手伝った。

 また、幼稚園のころからボーイスカウトに入っていて、小5のころには飯盒(はんごう)炊飯を率先してやっていた。家族の誕生日にはネットで料理のレシピを調べ、自ら作ってふるまった。それが変なことだと思うことはまったくなかった。

 大学2回生の年の父からのクリスマスプレゼントは包丁だった。寝ている間に、それが枕元に置いてあった。それも、素直にうれしかった。

 

 大学3回生のころ、康平の修業先が決まった。父、徹が、老舗の二世が集う全国組織「芽生会」で一緒だった料亭「柏屋」の当主、松尾英明に頼んで実現した。徹自身も、浪花の調理人を代表する上野修三のもとで修業してきて、「康平にも同じ経験を」と思ったからである。康平自身も「料理業界に入るには修業は当たり前」と思っていた。

 

 ソメイヨシノが咲き誇る4月1日、康平は「柏屋」の門をくぐった。歩けば20分はかかる賃貸マンションを見つけて住み、自転車で通い始めたのだった。

 与えられた仕事の中心は、下働きであり、賄い料理を作ることである。徹も修業時代に賄いを担当したことはあった。しかし、献立を決め、その材料を黒門市場で買うだけで、実際の調理は煮方の仕事だった。柏屋ではそれが全然違う。与えられた予算で献立を決め、近くのスーパーで材料を買い、調理も自分でする。すべてが康平の仕事だ。

 徹が「芽生会」の会合で松尾に会ったとき、松尾が「康平君の賄(まかな)い、上手いですよ」と言う。多分にお世辞も混じっているのだろうが、徹はそれが妙にうれしかった。

 賄いに関わる時間以外、康平は調理場でなんでもした。言われたこと、言われなくともしなければならないことはもちろん、大きな体でこまねずみのように動き回った。それが「楽しくて仕方がない」のだ。 

 

 松尾と徹の約束では、修業の期間は「とりあえず2年」。2年が過ぎた後、さらに修業を続けるのかどうかを考えるという。

 修業期間の五分の一が過ぎた酷暑のある日、休みで家に戻った康平と徹が顔を合わせた。徹が驚いたのは、117キロもあった康平が25キロ近くも痩せていたことだった。<大きなこまねずみ>の成果ともいえた。「あと10キロ、スリムになれば」と思いつつ、徹にはそれもうれしいことの一つだった。

 

 そんな康平に、今井に入社した後のことを聞いてみた。

 「お店の従業員と仲良くなり、居心地のいい店にしたい。そして、今はない社員旅行を復活させたい」

 「道頓堀を変えたい。レジャー、食事をゆっくりできるような、治安のいい安心できる町、通るだけでワクワクできる、そんな町にしたい」

 「今の今井に問題があれば、その部分を直すことで今井は大きくなれる。お金にがめつくなったら、格が下がるような気がする」

 どれも、流れるように口をついて出た言葉だった。

 

 そんな康平を徹はどう見ているか。

 「独りぼっちが嫌い、常に仲間といたい。そんな子なんだね。それをやさしさというならそうかもしれない。しかし、やさしさだけで経営はできない。そこをどうやって克服し、やさしさと厳しさを共存させていくか」

 そして続けた。

 「道頓堀という拠り所をなくすようなことはするな」

 

 「(お店がある)この場所はイモ焼いてでも食うていける場所や。大事にせいや」―― この考え方は清三、寛三と受け継がれたものだ。いや、それ以前からのものだったかもしれない。徹の考えも同じだ。それを次代にどう繋いでいくか。

 「今後の今井がどんな商売をするか。かつて芝居茶屋から楽器店に変わったように、8代目が何をしようとかまわない。しかし、道頓堀のこの場所を大事にしていく、その気持ちだけは忘れたらあかんね」

 

 康平が抱える課題はとてつもなく大きい、といえるのかもしれない。

 


<筆者の独り言>

 

 これを書き上げた日も「今井」に取材に伺い、いつものように戎橋と日本橋、宗右衛門町と道頓堀通りをつないだ一帯を歩きました。そこでの発見は①道頓堀通りと宗右衛門町の賑わいが決定的に違い、道頓堀通りが群を抜いている②インバウンド(海外からの旅行客)の爆買いが沈静化したといわれながら、実際は相も変わらずの爆買い現象が、道頓堀周辺のドラッグストアでは続いている――でした。この日は、午前11時の開店直前から「今井」の店頭にも10メートル近いお客の行列ができていました。海外からのお客と日本人が半々でしたが、これにもびっくり。すごい熱気で、どこにこんな吸引力があるのだろうと思ってしまいます。連載の開始(2015年3月)以来、何度となく訪れた道頓堀ですが、この賑わいは来年もこのまま続くのでは、という気がします。

松茸そば
松茸そば

今回の「今井のメニュー紹介」は「松茸そば」です。

 

 文字通りのマツタケそばが出てきました。異色と言えるのはそばの上にのったマツタケの量がものすごく多いことでした。長さ15センチほどの中ぶりのそれがまるまる1本分、縦にそのままスライスされておそばを覆うようにのっているのです。それは壮観、としかいいようがありません。焼きマツタケは焼き立てにスダチを落として食べるのですが、このおそばにもスダチが添えられていました。

 

 「マツタケをけちるな。そばが隠れてしまうくらいにのせよ」が社長の今井徹さんの口癖です。そんな心意気がマツタケの香りとともに漂ってくる一品です。

 

第11章「明日の今井」に向けて3(最終回)

 例年のことだが、秋・10月は「今井」の7代目、今井徹にとって何かと忙しい時期である。所属する様々な業界組織の全国レベルの総会などがこの月に集中し、それこそ全国を飛び回る日が続く。しかし、11月の声をきくと、どの業界よりも早い忘年会の時期に入る。客の忘年会で繁忙のピークとなる師走は、この業界では自らが忘年行事をしているわけにはいかないのだ。

 

 なのに、この年の10月下旬の数日はなぜか、決まった時間に家を出、夜もそう遅くならずに帰れる日が続いた。この月にしては珍しいゆったりの日だ。

 その朝も午前7時を回るか回らないうちに目覚めた。深夜帰りをせずに済んだせいである。パジャマ姿のままリビングのテーブルを独り占めし、いつも通りコーヒーメーカーを自分でセットし、スイッチを入れたあと新聞を広げた。

 目に飛び込んできたのが「2016年(平成28)1-9月に大阪を訪れたインバウンド(外国人観光客)」に関する大阪観光局の発表数字だった。それは、前年同期比35%増の711万人とあった。昨年1年間の総数である716万人とほぼ並びかけている。

 711万人のうち555万人は中国、韓国、台湾など東アジアから。この地域から東京を訪れた観光客数を上回った。日々、道頓堀通りを見ていて思い当たる数字だ。そしてその記事には「年間で900万人を超えるのは確実。1000万人に迫る勢い」との観光局長の強気の見通しまで書きこまれていた。あたかもそれが素晴らしい成果、実績であるかのようなはしゃぎようなのだ。

 コーヒーを飲み終え、いつものように浴室に向かった。湯船につかり、さっきの数字をゆっくりと反すうしてみる。

「インバウンドも大事。でも、うちにとっては、これまでずっと今井を贔屓(ひいき)にしてくれる客がより大事」

徹のいつもの持論が頭をもたげてくる。インバウンドがあまりに多すぎて、土地っ子たちが小さくなって道路の隅っこを歩いているのだ。「これでええんやろか」。あえて水を差す言い方だが、徹はそんな気持ちを抑えきれないのだ。

 

 東アジアからのインバウンドが増えたことで、ミナミも、道頓堀も大きく変わった。タコ焼きをはじめ、食べながら歩く人たちのニーズに合った食の店が増え、爆買いの受け皿ともいうべき免税の薬店が増えた。ウインズができ、道頓堀五座がその地から消えて以来の大きな変化といってもいい激変ぶりと、「道頓堀今井」にとってインバウンド効果があまり期待できないジレンマにかられる。

 こうした現状の中、「今井」の歩む道は。徹はそれを見つけ出せないかのようだった。

 

 

 

 鱧(はも)が旬を迎えた夏のある夜、徹は食の業界にあって最も親しい「本吉兆」の3代目、湯木潤治を本店に招き、今井ならではの鱧好きうどんを二人でつついた。湯木は「吉兆」を起こした湯木貞一の孫。徹とおない年であり、老舗の二世経営者が集う「芽生会」の仲間として、腹を割って話せる相手だ。

 同時に、味の嗜好や道頓堀の激変に無関心ではおれないという共通点もある。この夜も話題はそこに集中した。「塩分に対する(お客の)考え方が大分変わってきたなあ」と湯木は言う。徹が即座にうなずく。労働で汗をかかなくなったことが、料理で使う塩分量に大きく影響しているというのだ。「スパイシーな味を好む人が増えている」とも。湯木は「今はまだ変えていないが」と言いつつ、吉兆の味を遠からず「変える日がくる」ことをにおわせるのだ。

 湯木は、道頓堀の変わりようにも触れた。

 「今井ちゃん、川をどう使うか、や」。湯木はそう言い切る。キタにはない道頓堀川を、そこに訪れる人たちが求める盛り場としてどう使うか。そして、おしゃれ指向の梅田(キタ)との違いをどう出すか。「どろくささで勝負や」とも湯木は言った。徹は、その指摘にほとんど異論をはさまなかった。時に「潤ちゃんのいう通りや」とうなずく一方で、徹の頭には「道頓堀は東洋のブロードウエイ」の思いと誇りが渦巻いていたのだった。

 2人はしたたかに飲んだ。飲みながら、最後は二人で人手不足を嘆いた。二人で「今井」を出、浮世小路に面したレトロな風情のバー「路」へ。そこでも、いつもの激論は続いた。なかなか尽きなかった。

  それにしても人手不足は深刻である。

 従業員が200人を 超えた今、安定して人を集められないという事もある一方で、びっくりするほど人が入れ替わる。歓楽街で食を扱う店なら週末や祭日は稼ぎ時。仕事に出るのが当たり前だった。しかし、「最近の若い子たちは、自分たちもそんな時に休みたいと考えるようですわ」と徹は言う。だから、入社してきても「週末に休めない現実にぶつかると簡単に辞めていく」時代。「給料がいくら高かろうと、それは変わらない」から、打つ手がないのだ。

 食の仕込みから閉店後の片付けまで――飲食店の拘束時間は長い。これも、入れ替わりの激しさの理由の一つだ。これまでは当たり前だったもの、働く姿勢そのものが大きく変わってきているのだ。

 そんな中、徹の社員に対する考え、組織のあり方に対する考えは明快である。

 「今井という会社が、誰の目からみてもよく分かる組織にしたい。上下の関係ではなく、より平面的な関係の組織でありたい。とんがったピラミッド型ではなく、なだらかな丘といってもいいような組織が理想」

 聞かれれば、即座にそう答える。言葉を変えて言うなら「仲間意識のつながりをベースにした、上下関係の緩やかな会社組織」ということになろうか。

 それでいて「現場に任すことは大事。しかし、何でも任すというわけではない」とも。

 「手間かけておいしくなるなら、手間かけようよ」。これも徹の口癖である。こと「味」には妥協はない。「今井の味を守る」が社長の座をかけた至上命題でもあるのだ。

 緩やかな組織と、「味」を守る厳しさと。二つを共存させていくのが、これからの大きな課題になっていくのは間違いない。

 

 

 この秋、道頓堀今井は、通信販売サイトをより見やすく、より分かりやすく利用してもらうべく、そのホームページを大きく変えた。それを記念し、10月一か月という期間限定の通販キャンペーン「ネットでイマイ 味覚の秋のツーハン・フェア」を展開した。ネットからの注文申込者に限り、看板のきつねうどんを目玉にした4点セットと栗ご飯3点セットのいずれをも3000円とし、今井のホームページからネット登録すると登録したその日から使える500ポイントを提供。期間中はすべての商品で送料無料――という特典を付けたキャンペーンだ。併せて、送料をこれまでの1296円から756円に値下げ。送料が無料となる購入金額も7560円から5400円に下げた。いずれも通販での売上増を狙ったものだが、今のところ滑り出しは順調だ。

 

 「待っているだけ(店で食べてもらうだけ)の商売では何も見えてこない。思い切って外商展開を」

 「今井」に入社して間もなく、徹自身の提案と決断で百貨店での商品販売に踏み切り、社長に就任して以降は「お取り寄せ商品」をさらに充実していった。店にきてくれる客が確実に増える一方で、外商、通販での売り上げも着実に伸びた。その最大のヒットが「うどん寄せ鍋」だ。2005年(平成17)秋、日本経済新聞が特集した「食通が食べたいお取り寄せ鍋(ランキング)」で1位を獲得。その人気は今に続いている。

 

 「今井の売り上げの半分を通販で稼げたら」

 徹はこんな目標を自分に課し、弁天町に新たな生産設備「セントラルキッチン」を立ち上げ、今春から本格稼働させた。

 2002年(平成14)、解体工事中だった中座のガス爆発事故で本店が類焼。10ヶ月の休業を強いられ、テイクアウト商品を専門に作るべく島之内に急場しのぎで作ったセントラルキッチンだったが、これが大成功。弁天町の新設備は、命とする「今井の味・だし」の生産を中心として島之内の平均3倍の生産能力を持つ。これが通販商品拡大のエンジンである。

 大阪の人たちが愛するうどん文化を、自宅でいつも気軽に味わってもらう。徹の通販戦略は、日本の「明日の食」の姿を暗示しているようにも見えてくる。

 

 江戸、明治、大正、昭和、平成へと、時代の移り変わりの中で芝居茶屋から洋楽器店、「御蕎麦処 今井」から「道頓堀今井」へと、しなやかにそして誠実に生き抜いてきた今井。そんな今井の拠り所・道頓堀が、これからどう変わっていくか。それは、だれにも想像つかないが、己をいつわらず、真心を持って商売をしていれば決して裏切らない街なのであろう、道頓堀は。

 

                           < 完 >

 

 

 

 


 <あとがき>

 昨年3月に連載をスタートさせて18カ月。今回の稿をもって「芝居とジャズと、宵待ち柳」を終わらせていただくことにします。長期にわたりご愛読をいただき、誠にありがとうございました。

 連載を新たなホームページで連載するとほぼ決まったのが一昨年2月。今井の歴史が道頓堀で刻まれ始めた江戸・天保年間からの歩みを取材の名目で解きほぐす一方、道頓堀の400年の歴史を丹念に調べ上げるのに1年余の時間をかけさせてもらっての連載スタートでした。

 

 終わるにあたり、連載誕生の立役者ともいうべき方に触れなければなりません。ホームページの管理を続けてくれた二口印刷社長、二口晴一さんです。連載を今井徹社長に働きかけて実現に導き、連載中は連載のすべてのレイアウトを担当、各稿に掲載する写真を実に丹念に集めてくれました。二口さんがいなければ、この連載はなかったといえます。ここに深甚の謝意を表したいと思います。