芝居とジャズと、宵待柳


第1章 廃墟から1

昭和20年3月の空襲により焼け野原となった千日前と道頓堀川一帯(写真提供:道頓堀商店会)
昭和20年3月の空襲により焼け野原となった千日前と道頓堀川一帯(写真提供:道頓堀商店会)

 火の粉が、逃げる幼児の腰から下のあたりを、道頓堀川の流れと逆の方向に帯状に流れ、通りを覆った。防空頭巾をつけ、人気が途絶えた道頓堀を西に向かって避難を始めた家族8人の誰もが、始めは熱さを感じなかった。天空でザーッとはじける焼夷弾の落下音以外は耳に届かないのも不思議だった。が、御堂筋を南に進み、「疎開空地」に逃げのびて、我が家を含む北側一帯が紅蓮の炎に包まれたとき、空地も炎の川となり、飛び上るほどの熱さが一家と周りの人たちに襲いかかった――――。

 大正時代から昭和初期のナニワのジャズを支えた中座東隣の楽器店、逃げまどう8人の生活拠点でもあった「今井楽器店」がその直後に廃墟と化し、苦境から立ち上がって「うどんとそばの店」に生まれ変わることになるとは、その時、大家族の誰一人として考えることはなかった。

 この夜、大阪をB29爆撃機が襲った大空襲は、「今井」が否応なく変わっていく序章だった。

 

 1945年(昭和20)3月13日午後11時すぎ、赤い灯青い灯の狂乱から静寂を取り戻していた道頓堀を切り裂くように、空襲警報が鳴り響いた。米軍の爆撃機「B29」の大編隊が西の空から近づいてくる知らせだった。

 「起きや」。少しの間をおいて、今井楽器店二階の各部屋に、当主の今井5代目・寛三の妻、マチ子のよく通る声が響く。寛三と、高等女学校に入りたての寛三夫妻の長女・宏子、小学校の卒業式を間近に控えて数日前に学童疎開地から戻ったばかりの長男・清三と住み込みの女中二人は、すでに外に飛び出していた。東櫓(やぐら)、西櫓両町の町会長を務めていた寛三は防火、消火と避難の指示を周辺にすべく駆け回り、宏子と清三は我が家に降りかかる焼夷弾を払うため、長さ一間ほどの火叩きを手に、女中とともに家の前にいた。

 寝入りばなから少し時間は経っていたが、寝ぼけ眼の末っ子、徳三だけが布団の中だった。春休みが終わったら小学2年生になるところだ。大慌てで着替え、防空頭巾をかぶって玄関前に出た徳三に、マチ子は「よう見とき」と空を指さして言った。

灯火管制が徹底されて真っ暗のはずが、徳三が見上げた上空は真っ赤だった。猛烈に明るい。ザーッというごう音を伴ってあられのように降ってくる焼夷弾の燃えさかった光だ。それを落とす爆撃機はまったく見えなかった。

 

 と、マチ子は再び徳三を家に戻し、75歳になる姑のコマにも声をかけて、二人を地下の倉庫にいざなった。「しばらくは、ここで」という。周りはレコードをはじめとする雑多な家具で埋まっていた。もちろん、真っ暗である。二人はそのわずかな隙間に座った。寒さがひざを伝う。が、母の次の指示は中々なかった。「おばあちゃん」。次第に恐怖がこみ上げてきて、徳三は思わずコマにすがった。


 目覚めてからの1時間を、徳三はこんなに長く感じたことはなかった。

 日付が14日へと変わる直前だろうか。コマと徳三はマチ子に呼ばれた。「もうあかん。逃げるで」の合図だった。入った時と同じように母に手を引かれて一階に上がり、玄関から外に。徳三の記憶では、宏子や清三らが我が家の屋根に落ちた焼夷弾を火叩きで突き飛ばそうとしていた。しかし、ほとんどが無意味な作業だった。木造家屋を焼き尽くすために開発されたナパーム剤(油脂)をふんだんに含んだそれは、叩けば叩くほど燃焼面積を広げるだけだったのだ。不思議と油の臭いはなかった。

 寛三も町会長としての仕事は終えたらしく、戻っていた。

 一家8人は、寛三を先頭に道頓堀通りを西に歩き始めた。200メートル程先の御堂筋に出て南進し、千日前通を超えた南側に人家を壊して強制的に作った「疎開空地」にとりあえずは避難するためだった。

 毛布などわずかの家財を詰めた乳母車を、女中の一人が押した。赤い空が、全員の頬を染める。最年少の徳三はマチ子に引っ張られるように歩いた。最年長ながら気丈なコマは腰を伸ばして無口で歩く。

 どこから飛んでくるのか、火の粉が、一家の進路を妨げるように西から東へと地面すれすれのあたりを流れていく。それは、徳三の腰のあたりを流れるのだ。振り返るとその帯は、日本橋の向こうにまで伸び連なって見えた。

 一家が歩み始めてすぐ、寛三が中座に突然消えた。出てくると、後ろには、住み込みで、座の風呂番を務めるおばあちゃんがいた。お隣さんで、顔見知りだ。寛三が「一緒に逃げようや」と必死に言っている。が、一向に首を縦に振らない。「大丈夫や(中座の大きな建物が燃え落ちるわけがない)」。笑顔のおばあちゃんの頑固な答えだった。同時にそれは、おばあちゃんが人と交わした最後の会話でもあった。

 西に向かって逃げる別の集団が脇を通り過ぎた。寛三は説得をあきらめ、8人は再び歩き出した。妙に人通りは少なかった。

 

 そのおばあちゃんが中座の焼失に殉じたと寛三らが知ったのは、時がずいぶんたってからだった。

 


<筆者の独り言>

 知人を介して、「道頓堀」の400年と、うどん、そばの老舗「道頓堀今井」の200年を抱き合わせで書いてみないか。そんなうれしい話が持ちあがったのが、たしか一昨年の暮れだったでしょうか。明けた正月から春にかけてバタバタと話がまとまり、その年は資料集めで暮れました。

 明けて迎えたこの正月は「道頓堀開削400年」の節目の年です。まったく知らない道頓堀の正月をのぞこうと、1月2日、「道頓堀今井」の本店を訪ねました。

 心斎橋駅で地下鉄を降り、アーケード街に出ました。なんと、人で埋まっています。自分で歩くのではなく、人の流れに体を預けて前に進むのです。

 普段なら5分のところを10分以上もかかって戎橋を渡り、道頓堀通りを東に折れて約100メートルのお店へ。わずかの距離の通りは、想像を超える人であふれていました。いつもは外国人が占拠しているこの町が、明けてすぐのこの日は日本人ばかりです。

 やはりここは、日本の、大阪の盛り場だったのです。それも、上方の「粋(すい)」の中心地、めかしこんだ老若男女を飲み込んだ「晴れの場」でした。もっとも、相合橋から東には東南アジアからの観光客もたくさん見えていて国際色豊かではあったのですが。

 賑わいは「道頓堀今井」の店内も例外ではありませんでした。入口を入ってすぐの右側に順待ちのお客がずらり。それは、食道楽の大阪を象徴する光景に見えました。

 さてさて物語は、廃墟の街にたくましく立ち上がり、栄光を極めた楽器店からうどんとそばのお店へと転身する際の、今井一家の苦難の姿から出発です。

とはいえ、回ごとに変わっていく今井家の登場人物の関係がつかみにくいのも事実。「いっそのこと、今井家の簡単な系図を」とばかり、次のような形で掲載してみました。これを参考に読み進めていただければ、と思います。合わせて、太閤さん以来の大阪(かつては「大坂」と表記しました)の400年と、今井家の初代、佐兵衛が道頓堀に姿を見せたであろう時からの200年を抱き合わせた年表も別途掲載しています。(年表はこちら)

第1章 廃墟から2

 大阪大空襲の夜。あられのように降る焼夷弾から身を守るべく避難を始めた今井の5代目で今井楽器店の当主、今井寛三ら一家8人が道頓堀通りに面した我が家から西に進み、御堂筋に出て左に曲がると、人の流れが途端に増えた。

1945年(昭和20)3月14日午前零時をかなり過ぎたころである。叫びながら、泣きながら、みんな、南へ南へと急いでいた。そのころには炎が間近に迫ってきてか、熱い。一家が千日前通を越えてすぐの疎開空地にたどり着いたころ、御堂筋は炎の川と化した。焼夷弾がそこここの屋根に突き刺さって炎をあげ、炎が作った強風が炎をさらにあおって横へと流れ始めたのだった。

直後には、そこで、人が燃えた。

 

 同じころ、道頓堀川の御堂筋以西も阿鼻叫喚の世界だった。

 

 住吉橋と幸橋のあいだ、川へ降りる階段のところにたくさんの人がつめかけていた。みんな逃げ場を失って、道頓堀川に入ろうと押しよせてきているのだった。「はよう入らんと、火が追っかけてくる」との大声。団平船2、3隻が燃えて沈んでいく。

 幸代は押されるままに川の中に入っていった。川に全身がつかったとき、背中の範子が「冷たいよう」といった。幸代は「辛抱しいや」といった。これが幸代と範子が交わした最後のことばとなった。兵児帯がとけて、背中の妹はいつのまにかいなくなってしまったのである。13歳の姉の背にしがみついて、炎の旋風をくぐりぬけてきた4歳の範子は、冷たい道頓堀川のなかで短い生命を終えたのだった。(小山仁示「大阪大空襲」)

 

 疎開空地は人、人、人だった。見えなくなった連れを大声で呼び叫ぶ人、熱さに耐えかねて絶叫する人。さほど広くない空地は、真っ赤な空からのごう音と、熱くない場所を探して逃げまどう人の叫びに包まれた。

 空地の北側の千日前通を越えたあたりの見慣れた時計店が、見る間に炎に包まれた。さらにその北側は、すべての家が真っ赤に染まっていた。熱さが増す。防空頭巾をしてはいたものの、目や鼻や唇は覆いようもない。今井の8人は、人ごみに隠れて必死に耐えた。我が家もダメだ。もう燃えている。そんな思いがみんなの頭をかすめた。

 「あかん、出よ」。寛三が叫んだ。空地の南東すみから人をかき分けて、徳三の手を引いたマチ子が、宏子、清三、コマが顔を手で覆いながら、戎橋筋に出る。女中の一人が乳母車を必死に守ってついてきた。そして、お互いを確認し合いながらさらに南へと進んだ。

 左に、徳三が通う精華国民学校が見えてきた。そこは火の魔手に襲われていなかった。校舎への正面入口は開いていた。転がり込むように校門をくぐり、校舎へ。ここも人、人、人だ。教室も廊下も、人であふれていた。が、校舎が炎をさえぎり、熱さは途切れた。それだけでも救いだった。一番幼い徳三の恐怖でひきつった表情が一瞬なごんだ。

 一家は二階の教室に入り込んだ。そこで何をしながら時を刻んだか。8人の中で、覚えているものは一人としていない。

 

 気付けば、空が白みかけていた。

 誰もが疲れているのに、眠気に襲われることはなかった。

 午前零時前に始まった大空襲は3時過ぎには終わっていたのだった。不思議と、火は追いかけてこなかった。しかし直前まで外は、炎が生んだ低気圧によって降り始めた雨が焼け跡をたたいた。吹き飛ぶ灰を飲み込んだ黒い雨だった。そこここで突風も吹いた。

 一家が避難した精華国民学校は、奇跡的に焼け残った。寛三、マチ子の機転が避難の足を早めさせ、8人の誰一人欠けることはなかった。避難した場所が焼け残る幸運も手伝って、8人は目の前で人が炎に包まれる光景を目にすることもなかった。黒い雨にも、突風の危険にさらされることもなかった。夫妻が幸運を呼んだとしかいいようがなかった。 

 

 爆撃機100機以上が襲いかかる空襲を「大空襲」と呼ぶ。3月13~14日の惨劇が、大阪を襲ったその第一弾だった。「夜間低空爆撃」とされるこの大空襲で、大阪市中心部は壊滅状態となり、道頓堀一帯も焦土と化した。今井楽器店の西隣にある劇場「中座」をはじめ、劇場はことごとく焼け落ち、そこから少し南の千日前・歌舞伎座が唯一焼け残った。

 大阪府警察局などの記録によると、この空襲による死者は3987人、り災者は50万1578人に達した。

 「大阪大空襲」は玉音放送前日の8月14日まで、8次にわたって繰り返され、それ以下の規模の空襲も含めると、その年の1月以降に大阪を襲った空襲は28回を数えた。空襲のり災者総数は113万6千人、死者1万人余、重軽傷者3万5百人、焼失家屋は31万戸を数え、市域の約30パーセント、市中心部の3分の2強が焦土となった。

 「撃ちてし止まむ」や「進め一億火の玉だ」の気概もしぼみ、無意味なお題目だけのものとなった。

 


<筆者の独り言>

 1月10日の正月行事、今宮戎神社・宝恵かご行列の賑わいをこの目に焼き付けるべく、午前9時前から道頓堀界隈を歩き回りました。

 宝恵かご行列は、ミナミの芸者衆がかごで派手に繰り出し、今宮戎に参けいしたのが始まりです。200年余前には美しい行事に整備され、正月の奉納行事となったもののようで、最盛時は100丁ものかごが華麗を競いました。

 宝恵かごが美しい行事に整備された200年余前といえば、「今井」の初代、佐兵衛が、郷里の奈良・今井町から道頓堀に居を変えたころ。佐兵衛も、この時期には賑やかで整った行事を見ていたのかも。奇妙な因縁です。

 今年は、ミナミのきれいどころに、襲名したばかりの4代目中村鴈次郎、NHK連続テレビ小説「マッサン」のヒロイン、シャーロット・ケイト・フォックスらがかごに乗って道頓堀と周辺の商店街を練り歩き、周辺町を代表して、道頓堀商店会長である「今井」の7代目当主、今井徹さんがかごの先陣役を務め、紋付き袴姿で先頭を歩きました。また、今年は戎橋の南東詰めに、伝統芸能や奉納演奏を披露する「戎舞台」が13年ぶりに復活し、文楽人形遣いの皆さんが「寿式三番叟」を披露したり、4代目鴈次郎の挨拶も。終日、様々な行事が続きました。周辺一帯は、正月三が日と変わらないほどの人、人、人で埋まっていました。「戎舞台」の側にいた私などは、人に挟まれ身動きがなりません。

宝恵かご 2015
宝恵かご 2015

  やっとのことでそこを抜け出し、昼になったので「道頓堀今井」へ。ここで注文するのは決まってきつねうどんです。いずれ本編にも登場する出汁(だし)のうんちくを徹さんから聞き、口にして以来、すっかりファンになったのです。徹さんによれば「出汁は生きもの」です。それが、きつねうどんに生きていました。 

筍そば(4月)
筍そば(4月)

 以来、このお店をちょくちょくのぞき、よそのお店では口にできないメニューを選んで注文します。

 最近、月に一度は注文するのが「季節そば点心」です。月替わりで、四季折々の具をふんだんにのせたおそばと、八寸(酒肴)、デザートがセットになっています。これがまた、たまらないほどおいしいんです。

 今井オリジナルのこのメニューの考案者は先代社長の今井清三さん(故人)だそうです。無類の美食家だった清三さんは、大阪や京都の日本料理を中心に、いろんなところを食べ歩き、その中で気に入った味を「今井でもできないか」と心を砕きました。そして、1978年(昭和53)の3月からメニューのラインナップに登場させたといい、新メニューのスタート前には12か月分のそばの献立を、きっちりそろえていたといいます。

「(麺類店でも)日本料理にある四季を生かすことが大事」が口癖だった清三さんの思いが生きる「季節そば点心」の4月は「筍(タケノコ)そば」です。この月がはしりの福岡県合馬(おうま)産のタケノコをまるごと直炊きし、直径8センチほどのものを輪切りにしてくりぬいた中におそばを盛り、その上に早蕨と山椒の若芽がのって・・・・。20センチほどの器には、中心におかれたタケノコを囲むようにおいしい汁があふれていました。これまでに見たことがない盛り付けです。八寸にはタケノコ寿司にタケノコや若鮎のテンプラ、湯葉豆腐にサワラの焼き物など。季節がふんだんに踊っていて何とも言えず、満開の春を食べる気分でした。


第1章 廃墟から3

 あられのように降り注いだ焼夷弾がもたらした惨禍は、「今井楽器店」の当主で今井の5代目、今井寛三ら一家8人が避難していた精華国民学校を一歩出たところからみんなの目に飛び込んできた。

1945年(昭和20)3月14日午前零時前から3時間を超える米軍のB29爆撃機による夜間低空爆撃「大阪大空襲」第一弾がもたらしたものを、8人は目にしていたのだった。

 一面が焼け野原だった。北に向かう戎橋筋、千日前筋を、燃え残りの電柱が黒い丸太となってゆく手をふさいでいる。東側の焼け落ちた民家のあちこちから白い煙もあがる。燃え残りがくすぶっているのだ。炎熱に叩きのめされ、くすぶりが灰色の陽炎のように立ち上る町並みがどこまでも続いていた。精華校だけが何故燃えなかったのか。答えも見つからず、寛三も妻のマチ子も「助かった」と心でつぶやくだけだった。

 「我が家がどうなったか」が気になる。「むりや」とは思いつつ、誰もがそれを口にはできなかった。ひょっとして精華校と同じように、もないわけではない。

 鎮火から約3時間。答えをつかむべく、疲れ切った体を励ましながら、寄り添うように、全員で楽器店東側に沿うようにある浮世小路に向かって北上した。


 道頓堀が、みじめな姿をさらしていた。

 戎橋の南詰から東は、前日までのにぎわいがうそのように静まり返っていた。一人、二人と、押し黙ってさまよい歩く姿が見えるだけだった。

 浪花座も中座も、カフェーも食堂も、すべてが燃え屑となっていた。芝居茶屋が軒を連ねた浜側(道頓堀左岸)は、さっぱりとなくなり、通りから川の流れが丸見えだった。変化といえば、がれきの山の大きさの違いが目に飛び込んでくるだけである。寛三夫妻の子、小学生の清三や徳三には、何もないがれきの平原の北のかなたに大阪城だけがストレートに見えた記憶だけが鮮明に残った。

 

 中座のうず高いがれきの東に、今井楽器店が無残に焼け落ちていた。残ったのは、中座と今井を仕切っていた高さ10メートルほどのレンガの防火壁だけだった。それは通りから南北に、今井の勝手口、中座の楽屋口のところまで伸びていて、熱風にさらされた跡が黒くただれたようになっていた。同じ防火壁が中座の真裏に東西に伸びて、子供の視界をさえぎっていた。

 通りに近い楽器店舗の床に、黒い塊がうず高く山を作っている。刺激臭が鼻をつく。触ると、その山裾はまだ温かかった。太平洋戦争の戦況が悪化の一途をたどった前年から金属楽器の製造販売が禁止され、楽器店なのに、レコードを売ることで糊口をしのがざるを得ない日々。しかし、それとは知らず戦意の高揚が頂点に達して売れに売れた軍歌のレコードが熱で溶け残り、べっとりと固まったものだった。その周りには、陳列棚の燃えカスが炭になっていた。

 やや奥に、赤茶けた金庫が転がっている。登記書類など店の重要書類などを入れていたものである。寛三がゆっくり開けた。書類の山がそのままの形で蒸し焼きになっていた。うっすらと字さえも読めた。

 

 通りのずっと奥、住居部分の焼け跡に、子供がやっと持つことができるぐらいのツボが転がっていた。近づいたマチ子がふたを開けると、中は焦げたたくわんだった。ぼう然とするばかりで、涙も出なかった。

昭和20年 空襲直後の道頓堀通り(写真提供:道頓堀商店会)
昭和20年 空襲直後の道頓堀通り(写真提供:道頓堀商店会)

 午前8時も過ぎると、往来が激しくなった。道頓堀が目覚めたのだ。しかし、いつもとはまったく違う。我が家も、行き場もない、さまよう人たちばかりが目立つ道頓堀だった。

 寛三が町会役員の一人を連れてきていた。我が家の前に立ち尽くしていた家族らに「行くぞ」と声をかけた。通りを東へ。一緒にきてくれた町会役員が小橋西之町に持っている、焼け残った貸家に移るためだった。

 高津高校にほど近い場所にそれはあった。着いてすぐ、一夜の悪夢を忘れるように、みな、泥のように眠りに落ちた。その時、空腹だったか、朝食はとったのか。8人の中で唯一、今も元気な徳三に、そのあたりの記憶がほとんどない。かつてない大空襲のショックでか、「記憶の空白」がぽつんぽつんとあるのだった。

 そこには1週間いた。全員、着の身着のままだった。風呂に入った記憶もない。

 食料の調達はマチ子がした。焼け野原のどこから調達してくるのかわからないが、1週間のあいだ、ひもじい思いをすることはなかった。「今思うと、女中が押していた乳母車の中身が食料に変わったのかも」と、徳三はいう。一部は物々交換で手に入れ、一部は今井家の蓄財のおかげだった。

 

 ハワイ・真珠湾奇襲で始まった太平洋戦争から数か月後、1942年(昭和17)のある日、寛三は高槻市から京都・亀岡に抜ける街道沿いの山中にある天台宗の名刹、根本山神峯山(かぶさん)寺の塔頭の一つ、寂定(じゃくじょう)院に、住職の近藤宗道を訪ねた。今井家の墓は四天王寺の共同墓地にあり、近藤が四天王寺・聖霊院の堂守をしているころに知り合ったという縁である。というより、多少の縁を頼って押しかけたというのに近い。

 考えれば考えるほど危うい戦争への道。「勝てんかもしれん」。口にこそしなかったが、寛三は戦局をそう読んでいた。「食いぶちを含め、いざ、に備えて家財を移しておかないと」の気持ちは強くなるばかり。宗道に頼んで、家財保管の小屋を寂定院境内に建てられないか。やむにやまれずそんな気持ちを、住職にぶつけたのだった。願いは通じた。

 南北に長い寂定院の境内奥の東北端に、3畳ほどの小屋が間もなく完成した。寛三はそこに、今井家の衣類、寝具、日用品、食器、日持ちする食品など、一家が一年は生活できる程度の物資を次々と運び込んだ。

 

 小橋西之町での一週間があっという間に過ぎ、一家は高槻に移った。

 その後も続いた「大阪大空襲」におびえることはなくなったが、かつて経験することのなかった田舎暮らしのスタートである。

 前途への不安にさらされながらも、この時でさえ今井楽器店が、うどんとそばの店に変わる予感を誰一人として持つことはなかった。

 


<筆者の独り言>

 ひとつの飲食店が、食材などを調達する取引業者はいったいどのくらいあるか。

 想像もつきませんが、「道頓堀今井」の場合、5、60社はゆうにあるようです。懐石からうどん、そばまでのメニューにかかわる食材の業者はもちろん、食器納入業者から、お持ち帰り品の包装資材とそのデザインなどを手掛ける印刷関連会社、そして、「出汁(だし)」の生命線ともいうべき水を管理する会社まで。その多さにはびっくりします。

 そんな取引業者が、年に3回のゴルフを楽しみながら懇親を深める組織「今井会」が立ち上がったのは1987年(昭和62)あたり。間もなく30年の歴史を刻むことになる会の新年会が2月上旬にあり、お声がかかったのでのぞいてきました。

 会場は旧中座隣の「道頓堀今井」の本店。参加の業者さんが50人を超える盛会だったこともあり、3、4階を貸し切りにして大いに盛り上がる会となりました。

取引業者が一同に会して、恒例の今井会新年会(2015年)
取引業者が一同に会して、恒例の今井会新年会(2015年)

 私の座った席には、「今井」に真昆布を納入する大阪昆布のトップと営業課長、そば粉を納める山本そば製粉の専務、そしてねぎ、菊菜などの野菜を納入する二つの社のトップらがずらり。いずれも古くから取引があり、「今井の品質」を支え、維持してきた業者さんばかりです。途中から今井の7代目、今井徹社長も加わっての飲み比べとなりました。

 会食の合間、出汁の決め手ともいうべき昆布の話を聞かせていただきました。今井に持ち込まれる真昆布は北海道南に産する高級品ばかりだそうです。悩みの種は、産地の男衆の高齢化などで真昆布の生産量が減少の一途をたどっていることです。

 真昆布は、青森沖の海域や遠くはロシア・ウラジオストク南の海域でも採取は可能ですが、今井の場合、断固として「道南産」だけ。「真昆布の質が少しでも落ちたら、今の出汁は引けません」と、今井社長は言います。

 

 お土産にいただいた出汁丸ごと付きのきつねうどんを家で食べながら、お店と業者さんの味にかけたこだわりをしみじみ感じました。こだわりの中身はいずれ本編で。