今井と道頓堀の200年

芝居とジャズと、宵待柳


第8章 戦時下の道頓堀

1930年頃の道頓堀(写真提供:道頓堀商店会)
1930年頃の道頓堀(写真提供:道頓堀商店会)

 道頓堀川の水面(みなも)に小舟を浮かべ、飲料水を売る「水屋」なる商売が存在していたのはいつごろまでだったのだろうか。

1895年(明治28)、大阪市に上水道が完成した。それまで市民の大半は、水屋が大川(淀川の毛馬閘門から下流を指す。明治末期からの呼称)の上流で取水したものを買っていた、との記録がある。それからすれば、道頓堀川でもそのころまでは水を売る商売が成り立っていたはずである。

 大川が淀川の本流だったころの記念碑として、源八橋下流の左岸に「青湾」と刻まれた碑が建っている。川の一角に生じた澄んだよどみから、豊臣秀吉が茶の湯に供する水をくみ上げたとされる場所だ。そのころから明治の半ばまで、淀川につながる流域は水屋が活躍する場だったのであり、道頓堀川もその例外ではなかった。

 しかし、大阪が東洋のマンチェスターといわれるようになって以降、水屋は成り立たなくなった。毛馬の下流の淀川左岸域に紡績工場が並び、水の汚れが進み始めたのである。その影響は、それとつながる道頓堀川にも及んで、この地の水屋の一人は相合橋南詰めに屋台を置いてミカン水やラムネを売り始めたのだった。

 

 それでも、昭和初期まではメダカやフナがたくさん泳いでいて、子供たちがたもですくって遊ぶ水辺だった。が、1932、3年(昭和7、8)ごろから川の汚れは急速に進んだ。ここの場合、道頓堀、宗右衛門町がにぎわい、その代償として大量に流れ出た生活廃水が主たる犯人である。

 汚染の進行は「戦時」へと進む時代の流れと並行して、さらに深刻になっていく。

 

 この時代、「戦(いくさ)のきな臭さ」が急激に進んだ。

 以下の年表が示すように、犬養毅首相が射殺された5.15事件から太平洋戦争末期までの12年がそれに当たる。

 その年ごとの流行語も事象も、きな臭さにまみれた。軍部が跋扈(ばっこ)し、言論も文化も封じ込められ、国民の窮乏生活は頂点に達した。戦争へまっしぐらに進んだ12年でもあった。(年号のあとは流行語、カッコ内はその年の出来事)。

 

・1932(昭和 7)問答無用、話せばわかる、青年将校(満洲国建国宣言、5・15事件)

・1933(昭和 8)転向、赤化思想(小林多喜二虐殺、日本が国際連盟脱退)

・1934(昭和 9)国防(レコードの検閲制度スタート)

・1935(昭和10)国体明徴(天皇機関説が問題化)

・1936(昭和11)今からでも遅くない(2.26事件、賃上げ争議激化)

・1937(昭和12)総動員、パーマネントはやめませう(盧溝橋事件、防空演習や灯火管制実施、政府が国民精神総動員を提唱、日独伊三国防共協定調印)

・1938(昭和13)だまれ! 統制、代用品(国家総動員法公布、ガソリンや石炭の購入が切符制に、戦争賛美の書「麦と兵隊」刊)

・1939(昭和14)ぜいたくは敵だ、ヤミ配給(ドイツ軍がポーランドに侵入し第二次世界大戦勃発、物価統制令が実施され木炭や砂糖などが配給制に)

・1940(昭和15)一億一心、八紘一宇、南進(ダンスホール閉鎖、国民服制定と着用の義務化、東京オリンピック中止、米・味噌・醤油・塩など10品目が切符制に)

・1941(昭和16)翼賛、上意下達(東条英機内閣成立、男女の未婚者を対象に勤労奉仕を義務付け、ハワイ・真珠湾を攻撃し米英に宣戦布告太平洋戦争へ)

・1942(昭和17)欲しがりません勝つまでは、産めよ増やせよ、敵性語、非国民(衣料品が点数切符制、味噌・醤油・塩・パン・生うどんが通帳制に、米軍機が日本本土を初空襲、ミッドウエー海戦で日本海軍が大敗北)

・1943(昭和18)撃ちてし止まん、転進、玉砕、買い出し(グリコのネオン塔が鉄材供出のため撤去、ガダルカナル島敗退、敵性語が廃止されスポーツ用語が日本語化、アッツ島玉砕、天王寺動物園でヒグマを皮切りに猛獣類を射殺処分、学徒出陣)

・1944(昭和19)進め一億火の玉だ、神風、疎開(児童の集団疎開開始、サイパン陥落、グアム島守備隊玉砕、神風特別攻撃隊が初出撃、12月未明に大阪初空襲) 

 

 「話せばわかる」「青年将校」「転向」「国防」「国体明徴」という流行語は、軍部が台頭して政治の中心に立ち始めた時期であり、左翼弾圧が当然のごとく繰り返された時期を象徴していた。満洲国建国が宣言され、時の首相が射殺され、プロレタリア文学者、小林多喜二が虐殺された。賃上げ争議が頻発し、それを取り締まるのと抱き合わせで左翼弾圧が繰り返された。

 

 1937年(昭和12)、日本の明暗を分ける「戦時下」へ突入した。「総動員」「パーマネントはやめませう」が流行語になった。日中戦争の引き金となる盧溝橋事件が起きた年である。

 翌38年は「だまれ!」「統制」「代用品」。39年は「ぜいたくは敵だ」「マル公」「ヤミ配給」が。40年は「一億一心」「八紘一宇」「南進」が流行(はや)った。

 そして41年12月、日本軍がハワイ・真珠湾を急襲するとともに米英に宣戦を布告、太平洋戦争に突入した。「翼賛」であり、総力戦である。42年には「欲しがりません勝つまでは」や「産めよ増やせよ」「敵性語」「非国民」へ。43年は「撃ちてし止まん」「転進」「玉砕」「買い出し」。敗戦の前年、44年には「進め一億火の玉だ」「神風」「疎開」といった流行語がちまたにあふれた。

 軍部が台頭して議会政治が機能しなくなり、戦争へまっしぐら。物資が乏しくなり、統制が強化され、火の玉となって戦う以外に道がなくなっていき、最後は玉砕と神風――

 流行語を見るだけで、この12年の日本の実相が手に取るようにわかる。 

 

 道頓堀ジャズとダンス、そしてモボ・モガが大大阪を謳歌した大正末から昭和初期が道頓堀のにぎわいのピークとすれば、そのあとにやってきた「戦時」はこの町を死の町へと落とし込んだ。芝居の灯、映画の灯もすっかり消えた。

 道頓堀が戦時のあわただしさをかもすのは37年(昭和12)の夏ごろからだった。

 それより少し前の32年(昭和7)10月、「今井」の6代目、今井清三が誕生。芝居茶屋から楽器店への転換を成功させた5代目、寛三、マチ子夫妻の喜びがはじけた。

 35年2月、初代中村鴈次郎がなくなり、この町が沈み切った直後、あのグリコの初代ネオン塔が戎橋と道頓堀橋の間の河畔南側に姿を現した。高さ33㍍、ランナーとグリコの文字が6色に変化する華やかなものだった。大阪市の人口(298万人)が300万人の大台に近づき、市営地下鉄が道頓堀川をまたいで心斎橋-難波間が開通した。

 道頓堀界隈には暗さなどみじんもなかった。しかし、町はその直後に暗転した。

 清三の弟、徳三が生まれた37年7月を過ぎたあたりから、松竹家庭劇の女優さんらが兵隊さんの慰問袋を作り始めたとのうわさが、町に広がった。道頓堀五座の従業員や出演俳優が、献金をした。戦争協力が当たり前になってきたのだ。国家総動員法が公布され、ガソリンや石炭の販売は切符制に。

 不自由が当たり前となったら、歓楽の町・道頓堀の灯は消える。

 39年には小売店はそれまでの深夜営業を午後11時閉店とされ、映画、芝居も早朝からの興行を禁じられ、正午開場に切り替わった。婦人のパーマネントは「伝統に背く軽佻浮薄(けいちょうふはく)な髪型」とされた。

 42年(昭和17)、通りの中央を飾っていたすずらん塔が撤去された。グリコのネオン塔とともに鉄材供出の対象となったのだった。翌43年の正月早々にはジャズレコードの製造販売が禁止。鉄材を使った楽器の製造までが禁止された。この結果、じっと我慢で営業を続けてきた今井楽器店からは一切の金管楽器が消えた。代わりに店内は、軍歌のレコードで埋まった。

 44年(昭和19)3月、「決戦非常措置要綱」により、劇場は休場に追い込まれた。完全に芝居の灯が消えたのである。一方で、太左衛門橋から相合橋の浜側の民家が防火用地として立ち退き撤去を強制された。「稲竹」を引き継いでいた「稲照」も撤去された。そうしてできた疎開空地が繁華街のあちこちに誕生したのである。

 

 松竹座の前では俳優たちを集めての竹槍訓練さえ行われた。

 

 それは、芝居町としての道頓堀の死さえをも意味する光景だった。 


 <筆者の独り言>

 2月の季節そば「みぞれあんそば」を紹介しましょう。

 ネーミングからは寒そうな響きにもとれますが、なかなかどうして。実際は、一杯醤油で焼き上げた特大のアナゴをお出汁でたいてあんをひき、すりおろしたかぶらがそのうえにボタン雪のように花咲いているのですが、口に含めばあつあつ。あんかけ風なので、あつあつが逃げません。外の寒さを忘れる一品ですね。アナゴとかぶらの相性も抜群ですよ。

 

2月 みぞれあん
2月 みぞれあん

添えられた点心がまた美しい。萩の小枝を三角形に編み、雪に見立てた卵白をかぶせてつとをイメージさせ、その中に、厳寒に耐えて咲く白椿と紅椿を模したすしが並びます。白はイカ、紅はサーモンが素材です。そしてかまくらの外には、この季節そのものの節分の飾り物。ダイコンで作った3センチ角の升にしょうが煮の大豆、ふで作った赤鬼にこちらもダイコンとニンジンで作った紅白の絵馬・・・・。食べるのがもったいないと感じてしまう彩りでした。

 

 3種類から選択するデザートは、今回は「ゆずシャーベット」で決めてみました。