今井と道頓堀の200年

芝居とジャズと、宵待柳


第7章 川柳の町

 赤い灯青い灯が道頓堀川の水面を照らし、ジャズがカフェを包む。芝居小屋と芝居茶屋が通りの大半を占めていた道頓堀に新しい波が押し寄せた大正期、「川柳」という文化もそこで花咲き始めた。

川柳は、紅灯を飲み込み、芝居を飲み込み、大正モダンの新しい波をも飲み込んだ。そこで起きる事象のすべてを、五七五に粋に詠み込んだのである。

 

 先鞭をつけたのは、大阪毎日新聞(現在の毎日新聞)に勤務のかたわら35歳で川柳を始めた西田当百である。道頓堀・浪花座の東隣に初のカフェ「パウリスタ」がオープンした1909年(明治42)、関西川柳社を創立したのだ。さらに13年(大正2)、岸本水府らとともに道頓堀を活動の拠点とする番傘川柳社を結成。川柳誌「番傘」を創刊した。

 

 上かん屋ヘイヘイヘイとさからわず

 

 法善寺横丁の正弁丹吾亭前に、この句を刻んだ碑がある。「番傘」創刊号の冒頭に掲載された当百の句である。

 

 その後、「番傘」を主宰するようになった岸本水府を中心とした「道頓堀川柳会」(道頓堀雑誌社主催)の作品が雑誌「道頓堀」に連載されるようになる。第1回句会は19年(大正8)7月17日、南区玉屋町(現在の中央区東心斎橋)の松竹舞踏練習所で開催された。名の通り、道頓堀ずくめの川柳組織である。

 この時のお題は「道頓堀」「貸ボート」「小料理屋」「拾い物」。

 中でも「道頓堀」の句には、傑作が並んだ。

 

 今果てた道頓堀に曲がるなり(食満南北)

 道頓堀へ来ると友達らしくなり(竹人)

 団体は道頓堀の朝を行き(幽香)

 乗馬会の一人道頓堀を抜け(水府)

 誘はれて来て気の替わるパウリスタ(蹄二)

 

 鍵の手に舞妓の並ぶ楽器店(南北)

 

 「今井」の5代目、今井寛三のアイデアで、今井楽器店正面と法善寺に抜ける浮世小路とに鍵型に並んだマネキンガールの様子を詠みこんだ句も、この時、世に出た。

 

 

(写真提供:道頓堀商店会)
(写真提供:道頓堀商店会)

第二回川柳会は9月13日、番傘社の例会と合わせて、カフェ「パウリスタ」で開催された。20数人が集った。この日のお題は「帯」「罷工」「夜遊び」「引幕」だった。

 この中の「夜遊び」にちなんだ句は、どれをとっても道頓堀の赤い灯青い灯賛歌だった。

 

 夜遊びにもう正月も終日なり(一樹)

 戎橋越すと夜遊びらしくなり(源屈)

 夜遊びが見付けてすんだ夜の火事(一樹)

 夜遊びに吉井勇の顔も知り(水府)

 バーの灯を見ぬと寝れぬ男なり(猪之助)

 その果は徹夜のバーになだれ込(同)

 

 「番傘」は生まれて以来、道頓堀にはぐくまれて今日にいたっている。会員数は今や日本一である。まさに「道頓堀で生まれ、道頓堀が育てた組織」といえるだろう。

 

 「番傘」の中心に居続けた岸本水府(1892-1965)も、道頓堀を愛し、句作の中心をこの町の描写においた。

水府は三重で生まれ、大阪で育った。川柳作家としての顔と同時にコピーライターとしての顔も持ち、「福助足袋」「壽屋(現サントリー)」「グリコ(現江崎グリコ)」「桃谷順天館」などの広告を担当。「グリコ」では広告部長を勤めた。1936年(昭和11)、グリコのキャッチコピー「一粒300メートル」で脚光を浴びている。

 

 大阪はよいところなり橋の雨

 道頓堀の雨に分かれて以来なり

 盛り場をむかしに戻すはしひとつ

 牡蠣船は貸を残して国へ立ち

 不景気を裏から見せる戎橋

 戎橋白粉紙を散らす恋

 大阪に住むうれしさの絵看板

 朝帰り角座の列を見て通り

 芝居茶屋大黒ほどに背負って入り

 浪花座の下駄で宝恵駕篭いいところ

 友達はよいものと知る戎橋

 水も流れ人も流れて果太鼓

 千日前肩を叩くと連れになり

 絶頂の時代を迎えていた道頓堀とその周りの町を、水府は愛し続け、うたい続けた。どの句にも、水府のこの町に向けた優しいまなざしが読みとれる。

 同時にそれらは、道頓堀の時代の流れをも鋭くえぐり取っていた。今はもうない牡蠣船、にぎわいの角座、芝居茶屋の光景、芝居小屋から響いてくる果太鼓、そして戎橋も宝恵駕篭も・・・・・。

 道頓堀のその時、その瞬間を、水府はシャープに切り取ったのだった。

 

 頬かむりの中に日本一の顔

 

 明治から昭和まで「大阪の顔」といわれた歌舞伎役者、初代中村鴈治郎が「心中天網島」の主人公、紙屋治兵衛を演じた際の二枚目ぶりをたたえた岸本水府の川柳が発表された。1924年(大正13)のことである。

 その句碑(高さ約50㌢)が1960年(昭和35)、「御蕎麦処 今井」(当時)の入口右側、宵待ち柳の奥に置かれた。大阪の政財界人、芸能人らが水府を会長にして創設した「川柳二七会」の創立一周年を記念して基金を募り、完成させたものである。女優、中村玉緒が除幕し、完成を祝ったという。

 

 今もそれは、少し黒ずんでそこにある。

 拓本を取らせて、という希望が絶えないのだ。

  


<筆者の独り言>

 戦後70年が去り新たな年がきて、ミナミが、道頓堀が、どう変わっていくのか。そんな思いにとらわれているとき、ある新聞の夕刊1面トップに「大阪 ホテル爆開業」の見出しが躍っているのを見つけました。「爆開業」は、最近、道頓堀をはじめとするミナミのエリアで見られる「爆買い」をもじったものでしょうが、それは、今年から大阪でホテルの開業ラッシュが始まることを伝えていました。

 その新聞が独自に調査したところによると、今年から来年にかけ、大阪府域で22棟ものホテルが開業する予定で、うち20棟が大阪市内に集中しています。インバウンド(訪日外国人)に人気の高いミナミと、大型商業施設の集積するキタに特に多いのが特徴で、16年は12棟、17年に10棟が開業予定といいます。

 昨年1-9月に大阪にやってきた外国人観光客は、大阪観光局の推計で525万人。この時点で、一昨年通年の376万人をすでに大きく上回っています。実際、道頓堀を歩いていてもインバウンドが目立ち、「爆開業」もむべなるかな、とは思うのですが、果たしてこの現象が識者のいう「関西経済の活性化」につながるのかどうか。

活性化につながればこんなうれしいことはないのですが、「爆買い」の対象が特定のものに限定されている実態をみると、あまり楽観できないようにも思うのです。

あなたはどう考えますか。